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[解明]董卓の真実:残虐なだけではない、知識人登用の熱心な一面

2023年11月3日


董卓

 

 

 

董卓(とうたく)後漢(ごかん)(25~220年)の群雄の1人です。元々、涼州(りょうしゅう
)
を治める地方官の1人に過ぎませんが、後漢第12代皇帝の霊帝(れいてい)が亡くなったことを契機に、首都の洛陽(らくよう)に訪れて政治の実権を握ります。

 

 

 

呂布に暗殺される董卓

 

 

非常に暴虐な行為が多かったので民は苦しめられました。しかし、最期は養子の呂布(りょふ)と仲違いをしてしまい殺されました。ところで、董卓(とうたく)はどのような政治を行っていたのでしょうか。

 

 

 

董卓

 

 

もちろん、恐怖政治を行っていたのは有名な話ですが、その詳細な内容は分かっていません。そこで今回は董卓(とうたく)が行っていた政治について紹介します。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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元祖・ブラック企業 董卓軍団

異民族に好かれる董卓

 

董卓が洛陽(らくよう)に来た当時、連れてきた部下はわずか3000程度でした。他の諸侯に比べると、ちっぽけな数でした。

 

兵士

 

 

董卓はどうしても数を多く見せたかったのです。そこで董卓が思いついて提案したのが、恐るべきことでした。まず、夜になったら兵士を洛陽から出して遠くに行かせます。朝になるまで兵士たちは、どこか適当に歩きます。

 

兵士 朝まで三国志

 

朝になったら「董卓様の援軍の到着だ!!」と大声で洛陽に入場します。これを毎日繰り返します。洛陽の人々は董卓軍団は多くいると錯覚しました。ところが、董卓軍団の兵士は参りました。夜に意味なく歩かされているので、昼夜逆転が起きています。董卓の兵士は疲れて朝には眠り込んでいたようです。元祖・ブラック企業です。

 

 

 

スカウト作戦

丁原(ていげん)

 

しかし、こんなアホな作戦がいつまでも通用するほど世の中は甘くありません。いつまで経過しても、兵士の数は変わりません。そんな時に、董卓の前に1人の男が現れました。男は幷州(へいしゅう
)
刺史(しし)丁原(ていげん)と言います。

 

成廉、魏越、呂布

 

丁原(ていげん)董卓(とうたく)よりも多くて強い兵士を連れていました。しかも、これが強そうな男が率いていました。男は呂布と言って丁原の養子でした。董卓は丁原の軍団と呂布が欲しいと思いました。

 

呂布に殺害される丁原(ていげん)

 

あの2つさえ奪えば無敵である。そこで呂布を説得して、丁原を殺させて軍団も奪ってしまいました。また、呂布には褒美を与えて義理の親子の契りを結びました。

 

 

 

名士の登用

楊彪を司空に任命させる董卓

 

董卓最大の政策は、なんと言っても名士の登用です。名士(めいし
)
というのは、後漢~三国時代(220年~280年)にかけての独特な用語です。

 

 

袁家をイジメる董卓

 

簡単に言えば、知識人階級と思っていただければ結構です。信じられないかもしれませんが董卓は、こういった人物の登用に熱心でした。『三国志演義(さんごくしえんぎ)』では董卓の残虐行為にばかり目が行くので、どうしても彼の功績に目が届くことはありません。

 

 

陳羣

 

 

董卓は当時の一流の名士である陳羣(ちんぐん)の父の陳紀(ちんき)荀彧(じゅんいく)の伯父の荀爽(じゅんそう)を抜擢していきました。もっとも、この政策は董卓独自の政策ではありません。

 

董卓の要請を断り切れず冀州牧に就任する韓馥

 

後漢~三国時代は名士を自身の支配地に取り込んで政治を安定させることが当たり前の時代だったのです。董卓も暴虐な本心を抑えて、名士の登用を必死に行って自己の基盤を築いていました。

 

 

 

董卓に一括する男 蔡邕

蔡京(水滸伝)

 

董卓が登用した名士の中で後漢随一と呼ばれた学者がいます。名前は蔡邕(さいよう)と言います。博学(はくがく
)
で文章に優れており、数学・天文・音楽にも精通しており、歴史書の『東観漢紀(とうかんかんき)』も編纂しました。ちなみに、董卓は蔡邕(さいゆう)の言うことは絶対に聞いていたようです。このような逸話が残っています。董卓は「尚父(しょうほ)」という称号を望みました。

 

 

釣りをする太公望

 

 

尚父は太公望(たいこうぼう)(ぶおう)からもらった称号であり、「父の代わり」という意味です。董卓は皇帝の父の代わりとして尚父が欲しかったのです。しかし蔡邕から厳重注意を受けたので、この計画はすぐに頓挫しました。董卓に面と向かって言えるレベルだったので蔡邕がいかに凄い男だったのか分かります。

 

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が董卓の行った政策に関しての記事でした。

 

 

王允

 

 

蔡邕は董卓暗殺後、暗殺実行犯の王允(おういん)と呂布に仕えなかったことから、王允の手により殺されました。

 

 

李カク、郭汜、王允

 

 

ちなみに、王允は蔡邕(さいよう)を殺したことにより、他の名士からも人望を失い最期は董卓の残党により殺される結末になっています。

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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