董卓は後漢(25~220年)の群雄の1人です。元々、涼州を治める地方官の1人に過ぎませんが、後漢第12代皇帝の霊帝が亡くなったことを契機に、首都の洛陽に訪れて政治の実権を握ります。
非常に暴虐な行為が多かったので民は苦しめられました。しかし、最期は養子の呂布と仲違いをしてしまい殺されました。ところで、董卓はどのような政治を行っていたのでしょうか。
もちろん、恐怖政治を行っていたのは有名な話ですが、その詳細な内容は分かっていません。そこで今回は董卓が行っていた政治について紹介します。
元祖・ブラック企業 董卓軍団
董卓が洛陽に来た当時、連れてきた部下はわずか3000程度でした。他の諸侯に比べると、ちっぽけな数でした。
董卓はどうしても数を多く見せたかったのです。そこで董卓が思いついて提案したのが、恐るべきことでした。まず、夜になったら兵士を洛陽から出して遠くに行かせます。朝になるまで兵士たちは、どこか適当に歩きます。
朝になったら「董卓様の援軍の到着だ!!」と大声で洛陽に入場します。これを毎日繰り返します。洛陽の人々は董卓軍団は多くいると錯覚しました。ところが、董卓軍団の兵士は参りました。夜に意味なく歩かされているので、昼夜逆転が起きています。董卓の兵士は疲れて朝には眠り込んでいたようです。元祖・ブラック企業です。
スカウト作戦
しかし、こんなアホな作戦がいつまでも通用するほど世の中は甘くありません。いつまで経過しても、兵士の数は変わりません。そんな時に、董卓の前に1人の男が現れました。男は幷州の刺史の丁原と言います。
丁原は董卓よりも多くて強い兵士を連れていました。しかも、これが強そうな男が率いていました。男は呂布と言って丁原の養子でした。董卓は丁原の軍団と呂布が欲しいと思いました。
あの2つさえ奪えば無敵である。そこで呂布を説得して、丁原を殺させて軍団も奪ってしまいました。また、呂布には褒美を与えて義理の親子の契りを結びました。
名士の登用
董卓最大の政策は、なんと言っても名士の登用です。名士というのは、後漢~三国時代(220年~280年)にかけての独特な用語です。
簡単に言えば、知識人階級と思っていただければ結構です。信じられないかもしれませんが董卓は、こういった人物の登用に熱心でした。『三国志演義』では董卓の残虐行為にばかり目が行くので、どうしても彼の功績に目が届くことはありません。
董卓は当時の一流の名士である陳羣の父の陳紀や荀彧の伯父の荀爽を抜擢していきました。もっとも、この政策は董卓独自の政策ではありません。
後漢~三国時代は名士を自身の支配地に取り込んで政治を安定させることが当たり前の時代だったのです。董卓も暴虐な本心を抑えて、名士の登用を必死に行って自己の基盤を築いていました。
董卓に一括する男 蔡邕
董卓が登用した名士の中で後漢随一と呼ばれた学者がいます。名前は蔡邕と言います。博学で文章に優れており、数学・天文・音楽にも精通しており、歴史書の『東観漢紀』も編纂しました。ちなみに、董卓は蔡邕の言うことは絶対に聞いていたようです。このような逸話が残っています。董卓は「尚父」という称号を望みました。
尚父は太公望が武王からもらった称号であり、「父の代わり」という意味です。董卓は皇帝の父の代わりとして尚父が欲しかったのです。しかし蔡邕から厳重注意を受けたので、この計画はすぐに頓挫しました。董卓に面と向かって言えるレベルだったので蔡邕がいかに凄い男だったのか分かります。
三国志ライター 晃の独り言
以上が董卓の行った政策に関しての記事でした。
蔡邕は董卓暗殺後、暗殺実行犯の王允と呂布に仕えなかったことから、王允の手により殺されました。
ちなみに、王允は蔡邕を殺したことにより、他の名士からも人望を失い最期は董卓の残党により殺される結末になっています。
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