タラ・レバは現在はもちろん三国時代にも通用しませんが、「もしあの戦いの結果が違っていたら」と、想像力を膨らませるのはいたって自由です。という訳で今回は、序盤のライバル対決「公孫瓚 VS 袁紹」において、公孫サンが勝利するにはどうすればよかったのか、時系列に沿ってシナリオを練ってみました。
この記事の目次
まずは正史における公孫サンの最期を再確認
公孫瓚と言えば、「白馬将軍」という異名を持つ幽州の群雄であり、旧知の劉備玄徳を引き立てたり、反董卓連合に劉備3兄弟を従え参加するなど、目立った存在として描かれることも多いですが、それは三国志演義によるフィクション。
実際の彼は嫉妬深く、善政を敷いていた劉虞を自己中な理由で殺害・貶めたことで人心を失い、戦力的に勝っていたはずの袁紹に界橋の戦いで敗北。
立てこもった頼りの易京も袁紹が繰り出した「地下道作戦」で落城し、妻子を刺殺したのち居城へ火を放ち自決するという、みじめな最期を遂げます。しかし、公孫瓚という人物から「醜い男の嫉妬心」を引き算すると、歴史の趨勢が変化する可能性もあるのです。
公孫サン勝利のシナリオ1 劉虞との協力体制
187年勃発した張純の乱平定のため朝廷が派遣した劉虞は、武闘派公孫瓚が平定できなかった乱を、烏丸単于・丘力居を懐柔することであっさり鎮圧。
手柄を奪われる形になった公孫瓚は面白くないはずですが、ぐっと自制心を利かせ劉虞と協力し、幽州の治世を安定させていきました。
乱平定の功績によって大尉に昇進した劉虞も、武勇に長け頭の回転も早い公孫瓚を厚遇、自身は行政に力を注ぎつつ、軍事面は彼に一任するようになっていきました。
その結果、悩まされ続けていた異民族による脅威が去り治安は向上、劉虞の善政もあって幽州は北方随一の勢力を有することとなります。
公孫瓚勝利のシナリオ2 劉虞の右腕として持ち前の才能を発揮する公孫瓚!
2人の協力体制によって、幽州に乱世らしからぬ平穏な時が流れていた190年、董卓の専横に業を煮やした袁紹ら有力諸侯が、「反董卓連合軍」を立ち上げます。
危機感を募らせた董卓は、強引に洛陽から長安への遷都を敢行したのですが、この時劉虞は朝廷への忠誠心を明らかにするため、腹心である田疇を使者として派遣。
喜んだ献帝は朝廷にいた劉虞の子・劉和を遣わし、自分を迎えに来るよう命じようとするのですが、道中で袁術に捕えられてしまいます。
悪賢い袁術はあわよくば漁夫の利を得て、自分が皇帝の座に就こうと考えたのか、劉和を脅し父に宛て、「兵を派遣してくれれば、私も一緒に献帝を迎えに参ります。」という内容の書簡を送りつけてきたのです。
さすがの劉虞も人の親、書簡に従い数千の騎兵を派遣しようとしますが、頭が切れ信頼を置く公孫瓚に、「これは袁術による朝廷への叛心の表れです!」と諫められ、思いとどまることを決意します。そのうえで公孫瓚は、当時実力者であった袁術に余計な恨みを持たせないよう、自身のいとこである公孫越を派遣したのです。
公孫瓚勝利のシナリオ3 烏丸と鮮卑を懐柔・袁紹を壊滅!
袁術との関係悪化を防ぐため、半ば人質のような形で派遣された公孫越でしたが、公孫瓚と劉虞が意図せぬ展開で、戦乱の火種になってしまいます。
当時袁術は、袁紹と激しく争っていたのですが袁術の指示で孫堅とともに、袁紹陣営の周昂を攻撃していた公孫越が、戦いのさなか流れ矢に当たり、なんと戦死してしまったのです。
知らせを聞いた公孫瓚は言葉を失い、「袁紹が殺したようなものだ」と怒りに震えました。おそらく、自らの親族を差し出してくれた公孫瓚に強い恩義を感じていたのでしょう、傍らにいた劉虞も崩れ落ちる彼の肩を抱き、「ともに袁紹を攻め滅ぼしてくれよう!」と、穏健な彼にしては珍しく強くこぶしをふるわせ、袁紹との対決を決意。
かくして、烏丸・匈奴らの優れた騎射技術をマスターした5万の公孫瓚軍は、決戦の地「界橋」で袁紹軍1万5千と激突しました。
ここでいったん史実に戻りますが公孫瓚は袁紹との決戦の前に、反董卓の義兵に加わると偽り、韓馥を攻撃・撃破するという愚行をやらかしています。
そして、韓馥を見限り袁紹配下となった麹義が習得していた、強弩による羌族得意の「対騎兵戦法」によって、公孫瓚軍は歴史的大敗を喫するのです。しかし、人徳者である劉虞が義兵参加を偽るなんて愚行を止めないわけがないため、「if界橋の戦い」に、麹義の姿は存在しません。
こうなるといかに勇猛果敢な将軍や、知略に優れた軍師を抱えているとはいえ、元々戦力に劣り歩兵中心である袁紹軍が、辺境で異民族との戦いに明け暮れてきた、公孫瓚の「白馬騎兵軍団」に敵う訳もなく、散々に敗れた袁紹は居城・鄴へ退却を始めます。
激しい復讐心を抱く公孫瓚は、当然のように敗走する袁紹軍を猛追、劉虞も機動力に優れる烏丸・鮮卑の協力を得て、必要な物資をピストン輸送した結果、袁紹は居城にたどり着くことなく、捕縛されてしまいました。
「越の仇だ!」「殺せ!」と怨嗟の声が飛び交う中、もっとも恨みを抱いていた公孫瓚は、威厳ある声でこう言います、「われらの主君は劉虞殿、こやつの処遇は劉虞殿に任す」と。こうして幽州に連行された袁紹は、かの地の繁栄と劉虞の皇族らしい威風に触れ、従属を申し出て忠誠を誓うと劉虞に許され、以後劉虞を支える存在となったのです。
三国志ライター酒仙タヌキの独り言
はじ三読者なら名誉欲や支配欲が強く、支離滅裂な行動ばかりしていた公孫瓚は、三国きってのクズ武将であり、今回のif展開にムリがあると感じるかも知れません。
しかし、公孫瓚が劉備に勝るとも劣らない「天下の大徳」劉虞へ嫉妬心を抱かなければ、少なくとも史実のような情けない最期を迎えることは、まずなかったと考えています。
しかも、劉虞は中山王・劉勝の末裔と「自称」する劉備と異なり、初代皇帝「光武帝」の血を引く正真正銘の皇族で、帝位に就く可能性があったことから、忠義を尽くしていれば公孫瓚も三公や大将軍の座が十分狙えたのになぁと、彼の隠れファンである筆者は悔やまれてなりません。
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