劉備が諸葛亮を幕僚に加えるために彼の家を三度も訪問したという三顧の礼。会見が成ると、劉備は諸葛亮に自らの志を述べ、アドバイスを求めました。
それに対し、諸葛亮は「天下三分の計」を献策し、後の三国鼎立のアウトラインを描いてみせました。三国時代の立役者の一人である劉備が「天下三分」を意識した決定的な瞬間となったこの会見。
このやりとりは「隆中対」と呼ばれています。本日は、隆中対の内容を見てみましょう。
※隆中対の献策は正史三国志(歴史書)にも三国志演義(歴史小説)にもほぼ同文が採録されています。
「隆中対」――名前の由来と背景
「隆中」は諸葛亮の住まいがあった場所、「対」は「うけこたえ」という意味です。
当時、群雄の一人であった曹操が漢王朝の皇帝を推戴しており、天下の主立った地域を占めていました。
一方、劉備は曹操軍の圧力により自らの領地を放棄して逃亡し、荊州に割拠していた群雄の劉表のもとで居候になっていました。
劉備は300年以上前の皇帝・景帝の息子である中山靖王劉勝の末裔として、漢王朝の血をひく自分が天下を匡すべきであると考えていました。このため、自らの不遇を憂い、諸葛亮にアドバイスを求めました。
※中山靖王劉勝は好色で、子と孫あわせて120人以上いたそうです(『史記』五宗世家)
劉備、アドバイスを求める
諸葛亮に会うと、劉備は人払いをして諸葛亮にこう言いました。
漢王室は傾きすたれ、姦臣が天命を盗み、主上が旧都から移されている状況です。私は自分の徳や力のほどもかえりみず、天下に大義を伸べたいと思っております。しかし知恵も術策も足りず、追い詰められて今に至ります。それでも志はいまだやまずにおります。あなたのアドバイスを頂きたい。
「姦臣」とは曹操のことでしょう。「天下に大義を伸べたい」というのは、自分が曹操にとってかわりたいということでしょうか。劉備の言う「志」の内容ってのはよく分かりません。
こんな得体の知れない「志」に諸葛亮が感動したとは思えませんので、諸葛亮は劉備の言葉で動かされたのではなく、どこかに利害の一致を見たのでしょう。それについてはこちらの過去記事をどうぞ↓
過去記事:【荊州獲ったどー!】諸葛亮&愉快な仲間の州乗っ取り計画
諸葛亮、やる気まんまんで語り出す
アドバイスを求められ、諸葛亮はこう話し始めます。
董卓以来、豪傑が並び立ち、州に跨がり郡を連ねる者は数え切れないほどになりました。曹操は袁紹に比べて名声も軍勢も少なかったにもかかわらず袁紹に勝ち、弱者から強者になりましたが、これは天の時だけでなく人の謀によるところもあるのです。
曹操はチャンスに恵まれただけのラッキーボーイで勝ち組になったわけではなく、知恵と工夫と謀略を駆使して逆境をひっくり返して今のポジションを得たんですぜ、と言っております。
つまり、劉備はん、あんたにもまだまだ逆転の手立てはあんねやで、わいの計略を聞きなはれ、と言いたいんですね。亮さん、やる気まんまんです!
これが天下三分の計だ!
冒頭で期待をあおった諸葛亮。つづいて天下の情勢を話し始めます。まず、天下のうち、曹操と孫権は堅固な地盤を築いており、これと戦うことはできないと述べます。
そして、曹操・孫権のいずれにも属していない荊州と益州の話を始めます。
荊州は北は漢水・沔水により、利は南海を尽くし、東は呉郡・会稽を連ね、西は巴蜀に通じ、武力を振るうべき土地ですが、いまの主には守りきる能力がありません。これは天が将軍に差し出しているようなものですが、食指は動きませんか。
荊州は交通の便がよく、いい土地であると同時に守るのが大変な土地でもある。いまの荊州の主には守りきる能力がないからあんたが奪えばいいじゃないかと言っております。まずは荊州を乗っ取れ、と。そして次は益州乗っ取りを勧めます。
益州は要害の地で、沃野(ゆたかな土地)が千里にわたって続く天府(天の倉庫)の国です。高祖皇帝はこの土地によって帝業を起こされました。益州の劉璋は暗愚で惰弱であるうえに、北には張魯の脅威を抱えています。民も国も豊かであるのにこれを慈しむことをしないため、知恵や能力のある士は名君を得たいと思っております。
益州は天然の要塞のような地形で土地も豊かで、高祖皇帝の帝業の出発点になったほどのナイスな土地だからオススメ! 主君がポンコツで、愛想をつかした名士たちが新しい主君を引き入れたいと思っているから彼らの手引きで乗っ取ることができますよ! という意味ですね。
曹操と孫権の手に渡っていない荊州と益州をチャチャッと乗っ取り、天下の三分の一を占めて、それを地盤にじっくり天下取りの機を狙う。これが諸葛亮の天下三分の計です!(文中ではこれを「天下三分」とは呼んでいませんが)
しあげは漢室復興だ!
諸葛亮のアドバイスの締めくくりは、次のような言葉です。
将軍は帝室の末裔であられ、信義は四海に知られており、英雄を総攬し、渇した者が水を求めるように賢者を求めておられます。もし荊州・益州を確保し、その要害を保ち、西方の異民族と和し、南方の異民族を鎮撫し、外交では孫権と友好を結び、内政をおさめ、天下の情勢に動きがあった時に、一人の上将に命じて荊州の軍を率いて宛と洛陽に向かわせ、将軍ご自身は益州の軍勢を率いて秦川に出ましたらば、民衆は飲み物や食べ物の差し入れを用意して将軍をお迎えするでしょう。こうすれば霸業は成り、漢室を興すことができます。
この文、「もし」のかかる先が長すぎますよね。原文がそうなっているんです。諸葛亮の作文ベタ疑惑については正史三国志の著者・陳寿も言及しております。(諸葛氏集上呈の表文で言及。正史三国志諸葛亮伝の最後のほうに載っています)
さて、このアドバイスですが、劉備の人徳を元手にして荊州・益州を確保したら、孫権と同盟して地盤固めをしながら天下の情勢の変化を伺う。
曹操の領地で情勢がゆらぐような事態が起こったらすかさず荊州と益州から同時に出兵して、曹操領内の情勢の動揺につけこめば覇業完成!という手順です。
正史と演義の違い
諸葛亮の回答を聞き、正史三国志では劉備は「善(よし!)」と答えております。荊州・益州乗っ取り&覇業達成がお気に召したようです。
三国志演義では、劉備は諸葛亮のアドバイスに目の前の霧が晴れたようだと言いつつも、「荊州の劉表も益州の劉璋も漢の宗室につらなる者で、その土地を奪うに忍びない」としのごの言っており、諸葛亮は「天文を見たところ劉表の寿命は残りわずかです。
劉璋は大業を立てる器ではありませんから久しからずして必ず将軍に帰するでありましょう」というピントのぼけた回答をしております。正史の隆中対のほうが「よし!」で締まっていてクールですね。乱世なんですから、どうせ血塗られた道ですよ。演義の劉備もいいかげん腹をくくれって感じです。
三国志演義にはもう一つ小細工があります。諸葛亮のアドバイスの文言はほとんど正史からの引用なのですが、原文の「覇業」という部分が演義では「大業」と書き改められています。
「覇」というのは武力で天下を取ることであり、儒教的な考え方では忌むべき方法です。
覇道の対義語は王道で、仁徳で国を治めるやり方のこと。こちらが理想です。三国志演義の劉備は儒教の理想の君主じゃないといけないから諸葛亮は「覇業」なんてオススメするべきではなく「大業」をおすすめするべきだ、という発想での書き換えですね。(三国志演義は、「義を演ずる」と銘打ってある朱子学系儒教くさい読み物です)
三国志ライター よかミカンの独り言
曹操と孫権の手に渡っていない荊州と益州をチャチャッと乗っ取り、孫権とは戦わずにひたすら地盤を固め、じっくり天下取りの機を狙う。
曹操の領地に動揺がおこった時に荊州と益州の二方面から攻め込む。これが「隆中対」における諸葛亮のプランでした。
現実には、劉備は荊州乗っ取りでしくじり、孫権とガタガタしながら荊州南部を占拠し、益州は得たものの、孫権によって荊州を奪われ、曹氏領内への二方面からの攻撃ができなくなりました。
諸葛亮は漢室再興を果たすことができませんでしたが、それは天下三分の計が間違っていたからではなくて、実行段階で齟齬がでたためでしょう。それを挽回するためにたゆまぬ努力を続けたことが諸葛亮の人気の源でしょうね。
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