陸績は字を公紀と言い、呉郡の呉の生まれです。父は陸康と言い盧江太守でした。
しかし、父の陸康は後漢末の乱世に遭遇し、あの疫病神の袁術の根拠地に近い事から、勢力争いに巻きこまれ、当時袁術の子分だった孫策に攻めこまれて降伏し、僅か一か月後には心労から病死するという悲劇に見舞われます。その時少年だった陸績は色々あり、成長してから仇である孫家に仕える事になりますが、父の死は陸績の人生にも影響を与えたのです。
この記事の目次
袁術が泣いた!親孝行な少年陸績
陸績は少年時代から非凡であったようです。彼が六歳の頃、陸績は父に連れられて、まだ良好な関係だった袁術の本拠地の九江に遊びにいきました。袁術は当時はお金持ちしか持てなかったミカン園を保有しており、そこで取れたミカンをお菓子として陸績に与えました。
すると陸績は、出された蜜柑から、3つをつかんで着物の懐に入れ、お別れの挨拶をしますが、途中で蜜柑がコロリンと出てしまいます。
「おや、陸家の若君は、人に招かれた席でも蜜柑を懐に隠したりするのかね?」袁術が意地悪な事を言うと、陸績はひざまずき「すみません、母に持って帰ってやりたいと思っての事だったのです」と回答。
てっきり食い意地の張ったガキがワシの蜜柑をパクったのだと思い込んでいた袁術は、僅か六歳の陸績の親孝行コメントに涙腺が崩壊するほど感動したそうです。心が薄汚れてしまった袁術が無垢な陸績の心に感動したという話ですが、これ本当ですかね?機転を利かして母親をダシにして言い逃れたとしか薄汚れたkawausoには思えません。だって、母親の土産にしたいなら最初からそう言えばいいのであり、懐に隠して黙って持って行く必要はないからです。
孫策・孫権に仕えるが辛口コメントで嫌われる
一時は、居城に遊びに行くほど良好だった袁術と陸康の関係ですが、袁術が徐州牧の陶謙を攻める為に、陸康に兵糧を貸してくれるように頼んだのを拒否した事で険悪になり、最期は孫策の猛攻撃にさらされ盧江城は落城、陸康は病死します。陸績は城が落ちる前に故郷の呉に帰り、一族で年長だった陸遜に従いながら成長していく事になります。
その後、陸績は、張昭、張紘、秦松のような人材と共に年少ながら孫策の賓客として招かれるようになります。この頃の孫策は勢力絶頂のイケイケで、「いやぁ、今は乱世だから、何と言っても武力っしょ?武力を基本に天下を平定するのがマストだと思うねボカァ」と俺論を展開していました。それを聞いていた賓客たちはフムフムという感じだったようですが、その時、末席に離れて座っていた陸績が手を挙げ、大きな声で反論を開始したのです。
「お言葉ですが、申し上げます。昔、管仲は斉の桓公の宰相であり、諸侯たちを一つに纏めて天下を正しく位置付けましたが、それには兵車は使いませんでした。また孔子も、遠方の人間が服従しない時は自らが文徳を修めて、彼らをこちらに招き寄せるのだと言っています。ただいまの御議論は、道徳によって懐き寄せるという手段に務めずに、もっぱら武力に頼るように聞こえました。私は年若く、物事の道理もよく分かってはいませんが、只今の御議論には完全には賛同致しかねます」
この陸績の堂々としたコメントに、張昭らは心を打たれたそうですが、孫策は何とも言っていないので、恐らく好感を持たなかったのでしょう。陸績は長じると、男らしい風貌になり博学で知識が深く、天文暦法、計算術に通じ、読書の幅が広くて及ばないものはありませんでした。その為、虞翻や龐統のような、陸績よりも年長の人物も、陸績と友達として交際する程でした。
そんな事から陸績は名声が轟き、孫権は辟召して奏曹掾としましたが、陸績は孫策時代と変わらず正論を吐き、諫言を続けたので煙たがった孫権は陸績を左遷し、鬱林太守に任じて偏将軍とし兵士二千を与えて守備させます。
学者として活躍する事を期待した陸績は失意の中で死ぬ
しかし、僻地での将軍としての任務は陸績の望むものではありませんでした。元々足が悪い陸績には軍務は辛い作業であり、本当は都で学者として文化事業に従事したかったのです。その為、陸績は軍務の傍らで著述を続け、渾天図(宇宙概念論)を著わし、易経に注をつけ太玄経にも解釈を施し、それらは皆、世の中に広く伝えられました。
ところが足が悪い陸績にも容赦なく孫権からの南征の命令は下ります。天文に通じ人の寿命を図る事が出来た陸績は、自分の寿命が残り少ない事を知り、自分が死ぬ日を予測し、自らを祀る辞を自分で書いて予測通りに219年に33歳で病死しました。また、王朝の暦数に通じた陸績は、自分の死後、六十年で天下が再び統一されると予言。それはほぼ的中し陸績の死から六十一年後、西暦280年に司馬炎により天下は統一されます。
三国志演義では孔明から蜜柑パクリ野郎と罵られる
そんな哀しくも渋い経歴を持つ陸績ですが、三国志演義では、呉の降伏派の論客として、諸葛孔明にやり込められるというさっぱり冴えない役柄を与えられています。それも当時、人々によく知られていた、陸績の蜜柑の故事を逆手に取られてディスられているのです。
ー中略ー
すると座中の一人がまた「曹操は天子をたてに取って諸侯に号令するとは言え、やはり相国曹参の末裔ではある。劉豫州どのには、中山靖王の後と申されるが、明らかな証拠はあるまい。ただ目のあたり見たところは、むしろを織り、履をあきなう工人ではないか。それで曹操と争う事はできまい」と言うのを孔明が見ると、呉郡の人陸績であった。
孔明は笑いながら「袁術の座上でみかんを懐中した陸郎とは、そこもとの事であったか。
まず気をしずめて、それがしの言葉をお聞きあれ。
ー中略ー
このように三国志演義の陸績は、劉備って曹操よりも家柄が低いよね?中山靖王の末裔、証拠あんの?色眼鏡を外してみれば、ただのむしろを織って履を売っていた職人でしょ?と劉備の出自をディスってみた結果、そんなあんたは袁術から蜜柑をパクった陸坊やだね?と孔明に逆襲された人なのです。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志演義で蜜柑の故事がからかわれているという事は、当時の中国人も親孝行の教科書である二十四孝に載った陸績の故事を嘘臭いと思っていたのかも知れません。史実の陸績は博学多才で強者に阿らない立派な人ですが、孔明を主人公にしている三国志演義では、そんな立派な人は邪魔なので、蜜柑パクリの人として笑いのめして諸葛亮を引き立てようとしたのではないでしょうか?
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