『三国志』と一般的に呼ばれるものは2種類あります。西晋時代に陳寿が著した正史とされる『三国志』と明代に著された著者不明の小説『三国志演義』です。私たちが慣れ親しんでいる『三国志』は後者にあたります。正史は陳寿が元々蜀の人物であったということから蜀贔屓の表現もちらほら見受けられますが、基本的には中立な立場で、三国時代の人物たちもできる限り正確に描いていると言われています。
一方、小説である『演義』は善人・劉備VS悪人・曹操の構図がはっきりとしており、登場人物たちもそういった構図をより鮮明にするためかかなり脚色されて描かれています。その中でも正史と『演義』とで全くの別人のように描かれているのが公孫瓚。今回は、この公孫瓚という人物に焦点を当ててみましょう。
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『三国志演義』での公孫瓚
公孫瓚は白馬を乗り回す貴公子として描かれています。盧植の門下生同士である劉備をよく気にかけてくれる兄のような存在。
袁紹軍によって公孫瓚が命を絶ったことを知ると、劉備は公孫瓚の敵を討とうと戦意を燃え上がらせたのでした。そんな公孫瓚ですが、実は劉備と同門というだけで優遇されたにすぎなかったのでした…。正史『三国志』での公孫瓚~豪快な美男子篇~では、正史において公孫瓚がどのような人物として描かれているのでしょうか。
公孫瓚は遼西郡の出身。盧植という人物のもとで劉備と共に儒学の経典を学びました。公孫瓚は後に遼東属国長史となったとき、辺境パトロール中に数百騎の鮮卑族がうろついているのを見かけます。
すると、公孫瓚は数十人の部下たちに「今奴らを片付けておかないと皆殺しにされてしまうぞ」と発破をかけ、自ら矛を持って鮮卑族を強襲。公孫瓚は味方の半分を失ったものの、鮮卑族も数十人を失う大ダメージを受け、以後国境を侵すことはなくなったそうな。その後も反乱軍を鎮圧しては昇進を繰り返し、公孫瓚は目覚ましい躍進を見せました。
正史『三国志』での公孫瓚~嫉妬に燃え上がった醜い男篇~
しかし、公孫瓚の躍進は張純の乱でストップ。公孫瓚は序盤で張純軍を撃破したものの、張純率いる反乱軍を鎮めることがなかなかできませんでした。その状況を見ていた中央の臣たちは、異民族からの人望も厚いという幽州の劉虞を派遣することにします。
劉虞が現れたと知ると、異民族の族長たちは次々に使者を送り、反乱をやめると申し出てきました。兵を使わずに反乱を鎮めていく劉虞。これでは今まで散々兵力を消耗してきた公孫瓚は面目が立ちません。そこで、嫉妬心を燃やし始めた公孫瓚は、劉虞に遣わされた異民族の使者をこっそり殺害しかし、公孫瓚による暗殺だということはあっさりバレてしまいます。結局、張純の首は異民族の食客であった王政により、劉虞の元へ届けられたのでした。
正史『三国志』での公孫瓚~ますます仲が悪くなっちゃた篇~
董卓討伐軍が結成され、追い詰められた董卓は長安に遷都。皇族である劉虞を引き入れようと画策します。しかし、袁紹が劉虞を皇帝にまつり上げようとします。両者の思惑が渦巻く中、献帝は元の都・洛陽に帰りたい一心で劉虞に助けてもらうために劉虞の息子・劉和を長安からこっそり外に逃がしました。しかし、劉和は袁術に捕まってしまいます。袁術は劉和を利用して劉虞に援軍を要請。
袁術の思惑を見抜いていた公孫瓚は劉虞が援軍を送ることに反対しますが、劉虞はそれを振り切って袁術に援軍を送ります。自分の善意を無下にされたと思った公孫瓚。なんと自分も袁術に援軍と同盟の使者を送り、劉和を逮捕して劉虞の援軍を強奪。これにより2人の仲は壊滅的に悪くなってしまったのでした。
正史『三国志』での公孫瓚~ますます性格が悪くなっちゃったよ篇~
袁紹とぶつかっていた公孫瓚。その軍勢はじりじりと劉虞の領地に近づいてきていました。公孫瓚に攻められると考えた劉虞は公孫瓚を攻撃しますが、返り討ちにあい、生け捕りにされてしまいます。公孫瓚は、劉虞が天子の位を奪おうとしたと讒言。天子からの使者を脅して劉虞を処刑させたのでした。これに味をしめた公孫瓚は人の悪いところばかりを指摘し、気に入らない者を次々と殺害するようになっていきました。
正史『三国志』での公孫瓚~やっぱりろくな死に方しなかったね…篇~
劉虞がいわれのない罪で公孫瓚に殺されたことに憤った異民族たちは、袁紹と手を組んで公孫瓚に襲いかかりました。
さらに、劉虞の子・劉和も袁紹軍として公孫瓚を追い立てました。公孫瓚は自慢の易京城で数年間立てこもりますが、袁紹軍の坑道戦により城が破られてしまいます。これにより敗北を悟った公孫瓚は、妻子を殺して自害してしまったのでした。劉虞に嫉妬心を燃やすことがなければ、劉虞に手ひどい仕打ちをしなければ、公孫瓚ももう少しまともな死に方ができたのかもしれませんね…。
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