三国志演義で、魏と蜀の会戦前に、魏の司徒・王朗と蜀の丞相・諸葛亮が舌戦をしたというシーンがあります。王朗は舌戦に敗れて憤死しますが、それは三国志演義のフィクションで、歴史書の正史三国志やその注釈には二人が舌戦した記録もなければ、王朗の死因についての記録もありません。舌戦はしていませんが、王朗は諸葛亮にお手紙攻撃をしていたようです。
※三国志演義は、歴史書の正史三国志やその注釈を元ネタにして作られた歴史物語小説です。吉川英治さんの三国志(小説)や横山光輝さんの三国志(漫画)のストーリー展開はおおむね三国志演義に基づいています。
魏の重臣たちから諸葛亮への手紙
正史三国志諸葛亮伝の注釈にひかれている『諸葛亮集』に、こんな記述があります。
この年、魏の司徒華歆・司空王朗・尚書令陳羣・太史令許芝・謁者僕射、諸葛璋が
各自諸葛亮に手紙を送り、天命と世の趨勢について説明し、国をあげて藩国と
なることを要求した。
「この年」というのは西暦223年、蜀の初代皇帝劉備が亡くなった年です。諸葛亮は劉備オヤビンの臨終の際、「もし我が子に才がなければ君が国を取れ」と言われていて、《なんとおっしゃるウサギさん、そう言われてハイそうですかと取れるわけないじゃないですか、これからも粉骨砕身してしもべとして働かせて頂きますよ、憎いねコノ!》と思っていたはずなので、魏の重臣たちから《オヤビンが死んだんだから俺らの子分になれよォ》と言われても聞く耳もつわけないです。
これからは俺がリーダーじゃ、みんな言うこと聞けよ、って一致団結して蜀をもりあげようと思っている矢先に、魏の司徒だの司空だのといったそうそうたるメンバーからバラバラと降伏勧告の手紙がきたらうっとうしかったでしょうね。《っだようっせえなぁ。降伏なんてするわけないだろ。無礼だよ》って怒っちゃうとこです。
王朗から許靖への手紙
諸葛亮が受け取った降伏勧告の手紙は残っていませんが、蜀で司徒にまで昇った許靖が数年前に王朗から受け取った手紙が、許靖伝の注釈に引かれている『魏書』に載っています。許靖は先ほど述べた諸葛亮への手紙を書いたメンバーのうちの華歆、王朗、陳羣と親交があり、国境をまたぎながら手紙のやりとりをしていたそうです。王朗の手紙の書き出しはこんな感じです。
平安におすごしのこと、たいへん結構に存じます。
お別れしてから三十余年たちましたが、〔その間〕お会いする機会がないとは
思いもよらないことでした。詩人は一日の別離を歳や月にたとえております。
良い感じの友情レターですよね。このあと、あなたの近況を人づてに聞いていました、みたいな話が続きますが、下に引用するあたりからだんだん文脈があやしくなってきます。
天子さま(曹丕)は東宮におられましたときから、即位された後まで、つねに
すぐれた人物をお集めになって、現存する天下の傑人について論じられました。
いったい人間はみなたやすく英才になり得、士人は全部が全部たやすく
最高の評価を受けられましょうか。だから、〔私は〕みだりに原壌(孔子の旧友)と同じ
やくざな素質を持ちながら、孔子のごとき天子さまの情愛あふれる寛容さに
感激いたし、いつも足下を最も策謀にすぐれた人物と申し上げてまいりました。
このあと「昔なじみと生き方をともにすることの幸いを考えてください」とはっきり書かれています。なんだよ友情レターかと思って喜んで読んでいたら引き抜きの手紙かよ、プンプン、って感じですよね。手紙の末尾では「懐かしさがいっぱいで」とか「子供さんは男女あわせて何人おられますか」とか、友情っぽくまとめてありますが、用件はやっぱり引き抜きでしょう。
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敵から引き抜きの手紙が来たらどうする?
こういうがっかりするメールや電話、ありますよねー。母校の知り合いから突然メールがきて、友情メールかと思って喜んで読んでいたら何かの勧誘だったとか、販売だったとか。もし皆様が蜀の重臣だったとして、魏の重臣になっている友人から引き抜きの手紙が来たら、どうしますか? 私だったら、友達だと思ってたのに失礼だよ、と思ってポイッと捨てちゃいたいところですが、そう思いつつも万が一の時のためにそっと保管しておきますね……。
蜀があやうくなってきたら、友達づらして魏に転がり込むんです。というか、日頃から情報交換をして、あやうくなる前に脱出しよう。うん、それがいい。(三国志演義で天誅を加えられそうな雑魚キャラ的発想ですな)
手紙を受け取った諸葛亮の反応
諸葛亮が受け取った降伏勧告状の話に戻りますが、先ほども書きましたように、手紙の内容は残っておりません。無礼だよ、って怒った勢いで捨てちゃったんでしょうかね。
そうだとすれば、根性入ってますよね。絶対に降伏しないという覚悟がなければ、手紙、捨てられませんよ。(国を挙げて降伏しろという手紙なので、許靖が受け取った個人間の友情レターとはニュアンスが違いますが)捨てたかどうかは分かりませんが、『諸葛亮集』によれば、諸葛亮は降伏勧告の手紙には全く返事を送らなかったそうです。
そして「正議」という文章を作って国内向けのメッセージを発信しています。書き出しはこんな感じです↓
昔、項羽の場合は、徳義によらないで旗挙げしたため、中原におり、皇帝の権力を
もちながら、けっきょく釜ゆでの刑を受け、永く後世のいましめとなった。
魏はその手本をかんがみないで、いまこれに続こうとしている。
自分の身は幸いにして免れても、いましめは子孫に現われるであろう。
ところが、二、三の者がそれぞれ老齢でありながら、いいかげんな指令をうけて
手紙を寄こし、陳崇と張竦が王莽の功を賛美したようなおもむきがある。
王朗たちから受け取った手紙への不快感を示しております。このあと、魏の悪口を書いて、蜀は少人数でも強えって書いて、団結ガンバローみたいなノリで終わっています。
《丞相は魏の重臣たちから降伏勧告状をいっぱい受け取ってるけどどうするの?》って不安に思っている群臣に、手紙なんて無視するし! 戦うし! 俺らは勝つし! って言って、みんなの不安をバトルエネルギーへと変換させたんですね。
※「バトルエネルギーへと変換」という言葉の出典は漫画「SWEET三国志」です。
※「正議」で項羽が釜ゆでになったと書いてありますが、『史記』の記述と違いますね。異聞?
三国志ライター よかミカンの独り言
三国志演義で王朗と諸葛亮が舌戦するというシーンは、上に挙げたような文章の応酬からインスピレーションを受けて書かれたものではないでしょうか。諸葛亮が魏と戦う決意を示した文章としては「出師の表」が有名ですが、王朗たちからの手紙にブチキレながら書かれたらしき「正議」もなかなか熱量があって素敵です。
演義をかたちづくっていった人たちも、きっと「正議」の熱気に感応して、諸葛亮VS王朗をドラマチックに盛り上げたくなったのではないでしょうか。そう考えれば、あそこはやっぱり名シーンなんでしょうかね?……いや、でもやっぱり、舌戦に敗れて憤死っていう演出は、あんまりすぎるなぁ……。
和訳引用元:ちくま学芸文庫『正史三国志5』井波律子訳
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