西暦228年11月、蜀の第二次北伐の直前に、蜀の丞相・諸葛亮が皇帝・劉禅に奉ったという上奏文「後出師の表」諸葛亮の悲壮な覚悟が記された文章ですが、これは偽作ではないかという説があります。確かにおかしいんですよ。私が蜀軍の下っぱ将校だとしたら、総司令官が悲壮な覚悟を語るのなんか聞きたくないです。
この記事の目次
2つの出師の表-「前出師の表」と「後出師の表」
出師の表と言えば、西暦227年に、第一次北伐を前にした諸葛亮が皇帝・劉禅に奉った表文のことを指します。これは正史三国志の諸葛亮伝に載っています。「後出師の表」と呼ばれているものは、冒頭に書きましたように西暦228年の第二次北伐前に奉られたといわれる表文ですが、こちらは正史三国志には載っておらず、諸葛亮伝の注釈に引かれている『漢晋春秋』に載っており、『漢晋春秋』はこれを呉の張儼が書いた『黙記』から引用しています。この二つの表文を区別するために、前者を「前出師の表」、後者を「後出師の表」と呼ぶことがあります。
「後出師の表」偽作説
「後出師の表」には昔から偽作説があります。偽作が疑われる大きな理由は下記の2つです。
1.趙雲が死んだことになっているが、趙雲の没年は西暦229年であり、
「後出師の表」が上奏されたという西暦228年にはまだ生きていたはずである。
2.「前出師の表」は正史三国志に収録されているのに、「後出師の表」は
注釈の中の呉の人が書いた本からの孫引きである。
偽作でないなら「前出師の表」と同様に正史に載っていなければおかしい。
正史三国志の著者の陳寿は蜀の人なのに、呉の人でも知っている「後出師の表」を
収録しそびれるとは考えにくい。
「諸葛亮集」にも載っていないのに、呉の人の本にだけ載っているのは不自然である。
ちなみに、「後出師の表」の引用元である『黙記』の著者の張儼は諸葛亮のファンです。
横道:張儼が諸葛亮を擁護した言葉
話はそれますが、張儼が諸葛亮のファンであった様子うかがえる記述が、諸葛亮伝の最後のほうの注釈に載っています。諸葛亮を批判するようなことを言った人に対して、張儼は諸葛亮を擁護しています。中心的な要素は下記の通り。
曹操・劉備存命のころより、両者の強さははるかにかけ離れていた。《中略》
劉玄徳(劉備)でさえ対抗しえたのに、諸葛孔明(諸葛亮)がどうして
軍を出して敵の滅亡を策してはいけないのか。《中略》
義心が主君に向って表現されている点となると、古えの管仲・晏嬰といえども、
どうして彼以上でありえようか。
亮さんのやったことは間違いじゃない、亮さんの義心は管仲・晏嬰にまさるとも劣らない、って言ってますね。ほんとにファンなんですね。
関係ないですが、張儼が劉備オヤビンの軍事的才能を諸葛亮より下に見ていることが気になってしょうがないです。これには賛否両論あるのではないでしょうか。あと、諸葛亮の義心を表現するためのひきあいに管仲と晏嬰を挙げていますが、このお二人はそもそも義心を売りにするキャラじゃない冷徹な実務派政治家です。彼らよりも義心で勝っているというのはべつに自慢にもならない気がするのですが……。(諸葛亮をけなすわけではなくて、張儼のたとえの出し方がイマイチだなという感想)
内容的におかしい点(1) 「前出師の表」とテイストが違いすぎる
「後出師の表」は、内容的にも偽作っぽい気配があります。まず、「前出師の表」とテイストが違いすぎます。おんなじ人がおんなじようなシチュエーションで奉った上表文のはずなのですが。「前出師の表」の内容はとても簡潔で、自分が先帝から高く買われていたことをアピールしつつ、自分の留守中には自分の子分たちの言うことをしっかり聞いて都を治めておくんだぞと皇帝に念押しをしておき、安心して前線に赴けるようにするための実用的な文章です。
一方、「後出師の表」は、なんだか物語っぽいです。
劉繇、王朗、夏侯淵、昌豨といった人名や、南陽、烏巣、潼関といった戦場名が出てきて、三国志ファンが「ああ~、あの戦役、盛り上がったよね~!」と楽しくなっちゃうようなドラマチックな作りになっています。全体的な雰囲気としては、弱小国の蜀を率いる諸葛亮のご苦労がしのばれ、読む者がついホロリとしてしまうようになっています。とても盛り上げじょうずで、「前出師の表」の実直な書きっぷりとは天と地ほどの違いがあります。同じ人が書いたにしては、不自然です。
内容的におかしい点(2) リーダーの言うことじゃない
「後出師の表」の内容で決定的におかしいのは、文脈が悲観的すぎるということです。本気で魏をつぶしに行こうとしてる人がこんなこと言うかしら、と首をひねってしまいます。まず、最初のほうでこんなことを言っています。
(先帝は)臣の賊討伐の才が劣り、敵が強力であることをご存知でありました。
しかしながら、賊を伐たなければ、王業もまた滅びます。
ただじっとしたまま滅亡を待つのと賊を討伐するのと、どちらがすぐれた政策でしょうか。
成功を確信してないんですね。じっとしてたら滅んじゃうから、やぶれかぶれでもなんでも、とにかくじたばたするしかないんだ、っていう発想です。
臣が漢中に行きましてから、わずか一年しかたっておりませんのに、趙雲・陽羣・
馬玉・閻芝・丁立・白寿・劉郃・鄧銅ら、さらに曲長や屯将ら七十人以上を失い、
先頭に立つべき突撃隊長もおりません。賨・叟(雲南の蛮族)や青羌の散騎・武騎
(騎兵隊の名)一千人以上、これらはみな数十年かかって糾合した四方の精兵であり、
一州の保有するものではありません。もしまた数年も経過すれば、三分の二を
失うことになるでしょう。
我が国は先細りだと言ってしまっています。もっと未来に希望をつないでいただきたいです(将校を育てることは考ないんでしょうか)。ここでこんなことを言ってしまって、一度の会戦で魏を席巻できればいいですが、うまくいかずにずるずると二年、三年と経ってしまったら、「後出師の表」で「我が国は先細り」という先入観を植え付けられた人々は「最初の頃でさえ勝てなかったのにこんなに時間が経ってしまったらもうおしまいだー!」って思ってしまいます。みんながそんな考えに沈んだ時点で本当におしまいになってしまいそうです。
「後出師の表」は、勝てるかどうか分からない戦いを強行することに反対する人たちを論破するような論旨になっています。そのために、「臣は無能であります。必ず勝利を得ることなどどうしてできましょうか」とか「そもそもうまくいきにくいのが物事であります」などと言って、誰だって事の成否なんか読めないけどそれでも何もせずにいるよりはできるだけのことをやるべきだ、と主張しています。最後はこんな言葉でしめくくられています。
臣はつつしんで力を尽くし、死してのちやむ覚悟であります。
事の成功失敗、遅速については、臣の明らかに予見しえないものであります。
これは、大軍を率いるリーダーの言うことじゃないです。将兵たちは、総司令官が成功を確信していない戦役に従事して命を落とすのかと絶望するんじゃないでしょうか。
「後出師の表」では戦えない
蜀の下っぱ将校の立場にたって考えると、「後出師の表」には正直がっかりです。我が国は弱い、って言うのはいいんです。我が国は弱いから、みんなが全力でやってくれなきゃ勝てないぞ! って言ってもらいたいです。我が国は弱いから、みんなが全力でやってくれても勝てるかどうか分からないぞ、なんて、決して言ってはならないことです。
私が蜀の下っぱ将校だとしたら、表文の内容を耳にした瞬間に「バッキャロー、ふざけんな!」って叫んで暴れて捕まって処刑されてしまいますね。いや、そうやって暴れる自分の姿を妄想しながら羊みたいにおとなしく過ごして家に帰り、家で酒飲んで一人でぶつくさ言って奥さんに煙たがられ、悪酔いしながら奥さんにからみついて拒まれてもてあまして壁にパンチして穴を開け、翌朝それをみつけた奥さんにさげすまれて自己嫌悪に陥りながらむしゃくしゃしながら職場へ戻り、些細なことで部下にネチネチ説教したりなぞして、上司には見放され部下には嫌われ同僚も離れていきますかね。こんなことでは戦えないですよ。
三国志ライター よかミカンの独り言
諸葛亮伝の注釈に引用されている『諸葛亮集』の「正議」では、諸葛亮は『軍誡』にあるという「一万人が死を覚悟すれば、天下に横行できる」という言葉を引用しながら、弱小国でも勝てる! と強く訴えています。こちらが諸葛亮の本当の姿だと思います。
「後出師の表」は、内容的に絶対おかしいです。亮さんがあんなこと言うわけない。あれは諸葛亮の北伐が成功しないという結末を知っている人の創作に違いないと、私は断言いたします。
※後日「後出師の表」の真作説の記事も書きます。乞うご期待!
和訳引用元:ちくま学芸文庫『正史三国志5』井波律子訳 ( )の一部と《 》はよかミカン
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