「血統」は中国でも日本でも古代から大きな意味を持ってきました。英雄の血を受け継いでいるということは、その資質も受け継いでいる可能性が高いからです。能力を問わず、血統がその人物のカリスマ性を高めることになるわけです。草鞋や筵で生計を立てていた劉備は極貧生活をしていましたが、単なる貧乏人ではなく、実は高貴な血を受け継いでいました。まさに「みにくいアヒルの子」状態です。
劉の姓
「劉」の姓は、三国志に多く登場します。劉備の他にも劉表や劉璋、劉繇、劉虞、劉曄などなど。その共通項は漢王朝を興した高祖・劉邦の末裔ということです。つまり皇帝の血統ということになります。後漢第12代皇帝・霊帝は劉宏ですし、第14代皇帝・献帝は劉協です。時代をさかのぼっていくと、祖先は同じところに行きつくわけです。三国志演義第20回において、献帝が同じ血筋の劉備に叔父の礼を尽くして「皇淑」と呼んだのは、そういった理由からです。
中山王劉勝の末裔
しかし名乗り方はそれぞれ違います。劉表や劉璋は魯の恭王劉余の末裔と称し、劉岱や劉繇は斉の孝王・劉将閭の末裔、劉虞は東海王・劉彊の末裔です。そして劉備は前漢の景帝の子である中山王劉勝の末裔になります中国ではこのような皇族の血統を「宗室」と呼びます。皇帝の子でありながら、皇帝に即位できない男子は、財産を分け与えられ、王に封じられて国を治めるのです。
献帝も董卓に擁立され皇帝に即位する前は、陳留王でした。
宗室の劉備がなぜ貧乏生活を強いられたのか
では、なぜこのような高貴な血統である劉備が、母子ともども極貧の生活をしていたのでしょうか?一国の王として君臨できなかったとしても、それなりの贅沢な暮らしができていて不思議ではありません。景帝は前漢第6代皇帝です。その子のひとりが劉勝であり、中山王に封じられています。諡号が靖王なので、「中山靖王」の名称の方が聞き覚えはあるかもしれません。
この中山靖王はかなり子宝に恵まれていたようです。現代では子供が5人もいたら大家族です。中山靖王には子供が50人以上もいました。孫の代も含めると120人以上だった記録されています。国をここまで細分化して分け与えることはできません。王位に就ける人は限られているのです。さらにこのスピードで増えていったとして、子孫の代を考えていくと、劉備の世代には、中山靖王の末裔は単純計算で1万人を突破してしまいます。さすがにそこまでの人数はいなかったとは思いますが、劉備のような宗室の末裔は星の数ほどいたといっても過言ではないでしょう。そして一般の民衆と同じような暮らしをするしかなかったのではないでしょうか。
雑学・日本の歴史
ちなみに日本にも同じようなケースはあります。江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉は子供が55人です。病で亡くなる子供も多かったこともあり、成人したのは半数ほどですが、他の大名家の養子に送り込むなど、成人後の対応は大変だったようです。血統を絶やさぬよう、子供をたくさんもうけるのは大切なことでしたが、多すぎると多すぎたで不遇の暮らしをさせてしまう可能性もあるわけです。
三国志ライターろひもと理穂の独り言
劉備が中山靖王の末裔であるれっきとした証拠はありません。系図も途中が途切れており、曖昧なようです。ただし、曹操に対抗して、漢王朝の復興を目指して蜀漢を建国したように、その志はまさに高祖の末裔に相応しく、英雄と呼べる活躍ぶりです。
三国志正史の著者である陳寿が、劉備に高祖の面影があると記したほどでした。景帝はおろか、高祖のカリスマ性を最も強く受け継いだのが、劉備だったのではないでしょうか。まさに「隔世遺伝」ですね。
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