ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・これが起きたら時代は変わった!」のコーナーです。
劉備(りゅうび)の後継者が劉禅ではなく養子の劉封だったら蜀はどうなっていたのだろうか?
孫策(そんさく)の後継者が弟の孫権ではなく、子の孫紹(そんしょう)だったら呉はどうなっていたのだろうか?後継者が違っていたら国の将来は大きく変わったはずです。活躍した武将や軍師の顔ぶれも違っていたかもしれません。果たしてどんな国になっていたのか想像は膨らみます。
今回はそんな中で、曹操(そうそう)の後継者が曹丕(そうひ)ではなく曹植(そうしょく)だったらどうなったのかを妄想してみます。
禅譲は行われたのか?
曹丕といえば中国の歴史上初めて禅譲により皇帝に即位した人物として有名ですが、道筋はすでに父親の曹操が築いていました。(新の王莽は禅譲ではなく簒奪という認識です)曹操・曹丕親子が作り上げた禅譲の流れとは、
・九錫を賜ること
・娘を皇帝に嫁がせ外戚となり王となること
大まかにいうとこの2点になります。こうして帝位を受け継ぐ権利を有するわけです。はっきりいって禅譲と簒奪の区別はつきにくいのですが、この曹操・曹丕親子の禅譲がモデルとなり「魏武輔漢の故事」として王朝が替わるたびに行われていくことになります
(モンゴル族の元などは別ですが・・・それを倒した明も別ですね)。確認しておくと、曹操は皇帝になっていません。禅譲で皇帝になったのは息子の曹丕です。気になるのは曹操が皇帝になる気があったのかどうか。息子を皇帝にする気があったのかどうかです。
実際に曹丕が皇帝になっているので、きっとそう考えていたのだろうと思いますが、真相はわかりません。曹丕は自らを文帝、父親の曹操を武帝と追号しています。武より文の方が格上ですから曹丕は曹操に対抗するために皇帝になった可能性もあります。それ以外に父親のカリスマ性をしのぐ手段はなかったのではないでしょうか。
曹操は息子の治世のためにあえて皇帝にならなかったのかもしれません(超希望的観測)。そう考えると、仮に曹操の後継者が曹丕ではなく曹植であったとしても禅譲は行われたかもしれません。だとすると曹植は自らを武帝として、曹操に文帝を追号したのではないでしょうか。
兄・曹丕の待遇
後継者争いをした相手をそのまま重用するなど、古今東西聞いたことがありません。父母が同じ兄弟であっても後継者争いをした相手への憎しみは異常です。さらに油断すればいつ反乱を起こされるかわかりません。殺しておいたほうが後々のためなのです。当然のようにその腹心もまとめて処分します。
曹操は後継者を曹丕に定めた後、曹植を支持する楊脩(ようしゅう)を処刑し、曹植と縁戚にあたる崔琰を自害させています。曹植の側近の丁儀、丁廙は曹丕によって処刑されました。しかし、曹植自体は殺されていません。有名な「七歩の作詩」の兄弟愛に感銘を受けたのか、母親に気兼ねしたのか、曹丕は曹植を殺さず、鄄城侯として片田舎へ送りました。
曹植が後継者になっていたらどうなっていたでしょうか。本気で魏王を継ぎ、皇帝になるつもりであれば曹丕を処刑していたのではないでしょうか。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
曹丕だけでなく、その相談役の呉質、辛毗の命運も尽きていたことでしょう陳羣、司馬懿も同じ道をたどることになったかもしれませんね。賈詡、華歆、夏候惇あたりはそのまま起用したでしょうか。司馬氏がこのタイミングで滅んでいたら、
少なくとも魏が晋に禅譲しなければならなくなる歴史は変わっていたかもしれません。ちなみに日本の「大化の改新」あたりで活躍する遣隋使の「旻」は曹植の子孫だそうです。こういった渡来人の活躍もなかったかもしれませんね。
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