今回は賈充の死因について話してみたいと思います。
賈充と言えば、三国志末期から晋の時代に活躍した人物……は間違いないのですが、かなりショッキングな一件を引き起こしてしまった人物であり、尚且つ、ある意味では魏、そして晋の時代の終わりを作った人物……とも言えるかもしれません。
三国志末期の人物なのでその人物像を良く知らないという人のために、良く分かる賈充、甘口篇でお送りしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
この記事の目次
賈充とは一体誰か?その生涯と功績
賈充は字を公閭といい、三国志時代の武将であり、政治家の賈逵の息子です。賈逵は優秀ですが割と苦労して魏で出世していったので、賈充も幼い頃からそんな父親をみて育ったのかもしれません。
そんな賈充の生涯で最も大きな功績と言えば……やはり、甘露の変による、皇帝・曹髦の刺殺でしょうか。
司馬昭からの実権を奪取することが目的で皇帝側からこの変を起こしたとはいえ、ここで曹髦を殺害させたことは、歴史を大きく揺るがす事件であり、その後も司馬昭が何だかんだ理由を付けて賈充自信を処罰しなかったことに、政治的な意味での賈充の「やったことの大きさ」を感じさせます。
歴史上での賈充の位置づけと、その歴史的な背景
賈充の生涯を追うと、どうしても皇帝弑逆の一件が目立ってしまいますが、賈充の立ち位置はそれ以上に、皇帝一族に婚姻関係によって深く入り込んでいたことも注目です。
賈充には娘が何人かいるのですが、その内の賈荃は司馬昭の三男で、伯父の司馬師の猶子となった司馬攸の妻となっているだけでなく、最も有名な娘の賈南風は司馬炎の息子である、恵帝の皇后にまでなっています。賈充自身が有能であったことは間違いないのですが、時に最大の罪にも手を下し、更には婚姻関係から皇帝の近親に入り込むなど、多方面から隙を見せない行動をとっている人物というのも興味深いですね。
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賈充の死因に関する考察、その死因からどんな影響があったのか
そんな賈充は66歳で逝去、歴史的文献には賈充の死因についてははっきりと記されていません。ただ大きな病気や、戦争での負傷などであれば、賈充という人物ということも相まってもっと詳しく記されるでしょうから、年齢と時代を鑑みても老衰に近い病死ではないか、と考えられます。しかし同時に、その死因がはっきりとしていないことに多少なりとも人知の及ばぬ可能性があった……と言うのは、深読みでしょうか。
賈充が(そして司馬昭が)やったことは歴史的に見ても大罪ですし、更にその子や孫がしでかしたことも鑑みると、彼らが流させた血が、ある種の呪いのように彼らの血筋の歴史を断絶するべく動いたのかもしれません。
現に後の時代で彼らの所業を知った、東晋随一の名君だった明帝が「どうして晋の皇祚を長く保つことができようか」とまで嘆いています。まあ呪い云々にまで触れてしまうと全てが疑わしくなってしまうのでこの話はこれくらいにしておきますが、やったことがやったことだけに、賈充自身にも大きな精神的負担があったのかもしれませんね。それ故に家族への目配りがおろそかになった……のかも?
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賈充の存在が影響を与えた人物たち……寧ろ影響が大き過ぎた
ではそんな賈充が影響を与えた人物たち……がこれまた多い。
例えば賈充を皇帝し逆の罪で極刑にするべきと司馬昭に訴えた陳泰、その実行犯であり全ての罪を被せられ処刑された成済、そうして結局賈充を何ら罪に問わなかった司馬昭……この辺りのきな臭さは目を引きますが、それ以上に目を奪われるのが彼の娘たちです。
まず有名なのが恵帝・司馬衷の皇后となった賈南風、史書に恵帝の別の室の女性を、身重であったにも拘らず手にかけ、更には己の地位を取り成してくれた楊芷を逆恨みで殺害、更には後々八王の乱に繋がっていく司馬亮らの粛清などなど……とても語り切れないほど専横と暴虐の数々を費やした悪妻です。
またその妹の賈午も中々に我が強かったのか、イケメンだった韓壽に一目惚れして密通、賈充がこれを認めたので強引に結婚に漕ぎつけるなど、時代には珍しい自由結婚に近い行いをしています。この妹も姉と組んで専横に手を貸していたため、賈一族は皆殺しに合うことになりますが……
その後も八王の乱は収まらず、司馬一族を巻き込みに巻き込んだドロドロ極まりない一大事件へと繋がっていくのです。娘たちの所業全てが賈充の責任とは言いませんが、どうやったらこんなアクの強めな娘たちが育てられたのか、賈充の教育方針が気になる所ですね。
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賈充を取り巻く歴史背景、当時の政治状況と合わせて考える
賈充の父である賈逵は、10代前半に両親が死没したため、貧しい暮らしをしていました。それでも乱世の中己の才覚で出世していき、その才は曹操にも寵愛されたと言います。しかし楊脩と付き合いがあったため、一時的に職を失うという不幸があったと魏略には記されています。
そんな父親は賈充が12歳の時に亡くなり、この若さで陽里亭侯を継ぐことになりますが……曹爽、何晏らにとりたてられていき……はい、曹爽の失脚と共に一時免職となっていました。乱世とは言え、賈充が、その父が、如何に不安定な境遇を生き抜いてきたか分かりますね。この不安定な中を生き抜かねばならなかった経験が、賈充を皇帝し逆への道へと進ませたのではないでしょうか?
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賈親子の不運と不遇が、己の基盤の安定へと駆り立てた?
父は曹操に気に入られていたから復職できたものの、楊脩との付き合いからその立場を危うくさせた。
自身は曹爽に引き立てられるも、その失脚から職を失うことにまでなった。これらは彼らの落ち度というよりも、運が悪かった……としか言いようがありません。例え今、仕えている人物が栄華を誇っていても、何らかのほころびからその基盤は揺らぎ、更に自分までも……そう、賈充は考えていたのではないでしょうか。
そこから行われたのが、皇帝し逆、更に自身の娘たちを、司馬昭の子、司馬炎の子、両名の妃として嫁がせる……司馬家の基盤を揺るぎないものとし、その内部に入り込む……あの苛烈なまでの行動が、全て「安定のためだった」ら。
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安定を求めた先で、すぐに起こった「ゆらぎ」
……その先で、しかも自分の娘たちがやらかしたことにより、賈一族所か、司馬家まで揺らいでしまったのは何の因果でしょうか。
ただ賈充は男子に恵まれていなかったので、そういう点から見ると自分の家への不安はあったのかもしれません。だからこそ娘たちを入内させた……その先で悲劇が舞っていると知らずに……と考えると、どうにも賈充はただ優秀なだけでなく、性急さもどこか感じさせられます。その性急さは、自身の境遇から来るものでは?と考えてみた次第です。
賈充というとどうにも皇帝し逆の悪役イメージが強いのですが(あと娘がすごい)、その賈充の人生とはずっと、何かに急かされていきるようであったのでは……ふとそんなことを考えてしまうのでした。
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三国志ライター センのひとりごと
因みに賈充のエピソードで、酒席で庾純に「親の世話をせずに官職に就いている!」という当てこすりをする事件を起こしたことがあります。12歳で父親を亡くしてしまった賈充が言ったと考えると、何だか苦いものを感じますね。
まあその返答は「高貴郷公はどこにいる」……つまりは、お前は皇帝をどうしたんだという非難なので……賈充のやったことは、当時としても異質であり、そして知れ渡っていることでもありました。魏の時代にとどめを刺したのが間接的に賈充であるなら、晋の時代に間接的にとどめを刺したのはその娘の賈南風とも言えます。
……何とも凄まじい運命の元に生れ付いた一族だな、と思わずにはいられませんね。ちゃぷん。
参考:晋書列傳賈充 肅祖明帝記 魏略
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