建安13年(208年)に曹操は荊州を平定すると、すぐに呉(222年~280年)の孫権と決着をつけるために南下しました。しかし、孫権は劉備と連合して曹操を大破しました。
有名な「赤壁の戦い」です。この戦いで呉は主戦派と投降派に分かれて、投降派は諸葛亮と舌戦を交えて敗北します。もちろんこれは創作です。だが、諸葛亮と舌戦を交えた人物はあまり知られていません。
そこで今回は諸葛亮と舌戦を交えた人物が誰なのか正史『三国志』をもとに解説をしようと思います。
呉の筆頭家老:張昭
張昭は呉の筆頭家老です。諸葛亮と最初に舌戦を交えて倒されます。知られているとしたら、この人ぐらいです。
張昭は孫権の兄の孫策が死ぬ前に政治権で後を託された人物です。
まさに蜀(221年~263年)でいう諸葛亮のような存在です。赤壁の戦いで降伏論を主張したのは事実です。だが、その理由については不明です。
孫権と張昭はお互い水と油でした。後年、張昭がストライキをして自宅に引きこもる事件を起こします。頭にきた孫権は「あんたの顔なんて見たくない、大嫌い!」と急に女子っぽいことを言い始めます。
読者の皆様の予想は、張昭が「待てよ」と言って、「壁ドン」や「耳つぶ」でもすると思うでしょう。
「思うわけねえだろう!くだらねえ事言ってねえで、さっさと続けろ!」
怒られたので、続けます。実際は「私はねえ、あなたのお母さんから死ぬ間際に遺言で・・・・・・」と説教が始まったのです。とにかく孫権と張昭はマジでお互い嫌いだったのは有名だったのです。
呉の変わり者:虞翻
2番手は虞翻です。この人は呉の変わり者です。とにかく主人の孫権に平気な顔で反抗する。孫権は酒好きで有名でした。ある日、部下と一緒に飲み明かしました。ところが、虞翻は大の酒嫌いです。適当に飲むフリ・寝たフリをしていました。これが孫権にバレてしまいます。
「もう許せねえ、ぶっ殺す!」とキレた孫権ですが、先ほどの説教臭い張昭が止めに入ります。
それに対して孫権は「曹操だって孔融を殺したじゃないか。なんで俺が虞翻を殺しちゃダメなの?」孔融は曹操に殺された孔子の子孫です。おまけに学識のレベルは、虞翻と同格です。
殺された理由も主人の曹操に反抗したからでした。しかし、子供のような理論は通用しません。結局、孫権も頭が冷えたのか虞翻をそれ以上、責めることはしませんでした。ところが、虞翻はその後も平気な顔で孫権に盾突くので最後はベトナムまで左遷されました。
しかし、虞翻は平気な顔をしていました。
人材登用に積極だった人物:歩隲
3番手に出て諸葛亮に敗れたのは歩隲です。この人は最初の2人のインパクトが強いので、まったく目立ちません。実は呉の丞相です。
丞相に就任したのは陸遜が亡くなった後です。また、歩隲が積極的に行ったのは人材登用でした。世に埋もれて日の目を見ることが無い秀才を積極的に登用してあげました。
赤壁の戦いの時はいなかった人:薛綜
薛綜は戦国時代の四君の1人孟嘗君の末裔と言われています。もちろん自称です。4番目に出て論破された人ですが、この人は正史『三国志』によると赤壁の戦い当時は孫権配下ではありません。
ベトナム方面の独立勢力士燮の配下です。孫権の配下になったのは、赤壁の戦いから2年後の建安15年(210年)です。
魯粛の後任は呂蒙ではなくこの人:厳畯
厳畯はマイナーすぎて、知っている人もほとんどいません。筆者もゲームで少し知っていた程度です。諸葛亮に最後に論破されるのはこの人です。
あまり知られていませんが、魯粛死後の後任は呂蒙ではなく、この厳畯でした。しかし、厳畯自身が「軍事に疎いので辞退します」と自分から断りを入れたことから、呂蒙になったのです。また、諸葛亮も厳畯の学識は認めていました。決して論破されるような馬鹿な人物ではなかったのです。
三国志ライター 晃の独り言
以上が諸葛亮と舌戦を交えた人物に関する記事でした。
ほとんどの人が、『三国志演義』では諸葛亮にやられるため、ネガティブな印象が強いですが、実際はそうでもない人が多いのです。でも、虞翻のように変わった人もいますけど・・・・・・
※参考文献
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
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