魏の名将の一人、夏候惇。三国志をご存じの皆様ともなれば、武将の名前を挙げてくれと言わればかなり早い段階で挙げられる人物でもあるでしょう。
そんな夏候惇の死因に迫ってみるのが今回のテーマですが、夏侯惇の死因には現代でも「あり得る」可能性が含まれていたのです……!実にはるか昔の武将が、現代でもあり得る可能性を示唆する……夏侯惇、見ていきましょう。
この記事の目次
三国志演義の夏侯惇と、正史三国志の夏候惇
まずは三国志演義の夏候惇の話から少し。三国志演義の夏候惇は正に猛将、といった印象です。武勇に優れ、血気も盛ん、決して脳筋……ではなく、自らの行動を反省する場面も用意されていますが、やはり勇猛果敢な武人、といった印象を受けます。
しかし正史における夏侯惇はそのイメージとはだいぶ違い、寧ろ余り戦に勝つというようなイメージはなく、後方支援や人材発掘を行うなど、文官や政治家、といった印象です。また部下との距離も近いように見え……どちらかというと、三国志演義の劉備のイメージに近い人物像かもしれません。これが三国志演義と正史の夏候惇の大きな違いです。
三国志演義の夏侯惇はびっくり死!?
では三国志演義の方から夏侯惇の死因を見ていきましょう。
正に歴戦の武人といった風体の夏候惇、関羽千里行で後の曹操の大きな障害となり得そうな関羽を執拗に追い、討伐しようとする忠義と苛烈さ。そんな三国志演義の夏候惇の死因は……なんとびっくり死!
それも曹操の被害者たちが曹操を呪いに出てきているのを見てびっくり……まさかのびっくり&巻き込まれ。もっとこう……何か、華々しくもどこか寂しい戦死のようなシーンは用意できなかったものかと思ってしまいますね。
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正史における夏侯惇の死因とは?
二重の意味で驚きの三国志演義の夏候惇死因でしたが、正史の夏候惇の死因は何なのでしょうか。結論から言ってしまいますと、病死です。
220年の一月に曹操が亡くなっているのですが、その年の四月に夏候惇は亡くなっています。ただ、その病気に関しては不明です。急病だったのか、それとも既に何らかの病を患っていたのか。三月に大将軍に任命されていますが、果たしてこれが「病になっていたために今までの労に報いるために急いで任命したのか」それとも「任命した直後に急死するとは思わなかった」のか……どちらともとれるのではないでしょうか。
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正史の夏侯惇の病死……意外なとこでの「つながり」
さて夏候惇の死因は病死……としたい所ですが、ここでもう一歩踏み込んでみたいと思います。実はこの夏候惇の亡くなった時、近しい時期にとある武将が亡くなっています。もちろん前述したように曹操もその一人ですが、この一年前にある武将が病でこの世を去っています。
その年は219年。亡くなったのは呉の呂蒙。そう、三国志演義では関羽の呪いによって亡くなったとされる呂蒙も、同時期に病死で亡くなっているのです。
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正史の夏侯惇の死因は呪いによるものか……!?
関羽の死と共に、呂蒙が死に、曹操が死に、更に夏候惇までも亡くなっている。こんな同時期に全員病死などあり得るでしょうか!?これはもう正史における夏侯惇の死因も、関羽の呪いでは……!というのはちょっぴりナンセンス。
そもそも呂蒙や曹操はまだしも、夏候惇は正史では特に関羽との関係は何もありません。三国志演義では曹操や呂蒙と同じく、関羽が死んだ時と時期が重なるために同じような処理をされた……というべきでしょうか。ではどのような病気で……と考えると、ある時期の夏候惇の出征先が出てきました。
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南攻と広がる病と武将たちの死因
217年、孫権の征伐に夏侯惇は出陣しています。この出陣には司馬懿の兄、司馬朗が出陣していたことも有名で、疫病の蔓延により、そして自身もの薬も兵士たちに分け与えたことで病死しました。この出陣で夏侯惇だけが何の症状も出なかった、ということはないでしょうから、恐らく夏候惇も大なり小なり疫病の被害は受けていたと考えられます。
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夏候惇の死因
さて、近年有名な病気、流行病。重症化すると恐ろしい病気ですが、後遺症が酷いのも特徴です。そうでなくとも、ただの風邪から重症化すると後遺症は重くなり、また体調を崩しやすくもなるという悪循環に陥る危険性があります。年齢的な意味もあるかもしれませんが、夏候惇がこの出征で後遺症を引きずっており、二年後、ただの体調不良から急速に悪化して病死、という可能性は高いのではないかと思います。ただの病死、だけでなく前後の要因による急速な体調不良、大将軍への任命からの急死は、このような要因も含んでいるのではないかと思いました。
ましてや文官面での働きが大きい夏侯惇、真面目で周囲から親しまれていた人物で、果てには曹操が死んでしまった魏を支えるために多少の不調は隠して無理をしていたかもしれません。不調からすぐに復帰する、無理をする、もう少しいうとある種の油断と大丈夫という慢心。こういった要因が重なることは不調の原因ではなく、それが重症化して非常に危険な状態へと陥ることも良くあります。どうか皆さんもお気を付けくださいね。
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三国志ライター センのひとりごと
さて夏候惇の死因から現代でもあり得るような病気、と言ってしまいましたが。夏候惇の、それも正史夏候惇のイメージとして三国志演義とは真逆ともいえる、何だか親しみやすい人、そんな印象が強くあります。もちろんどこにでもいるような人材ではないけれども、それでもどこか身近な存在。
そんな夏候惇だからこそ、そういう「あり得そうな」死因だったのではないか、そんな風にふと考えてしまいました。そうするとそれは、現代へ向けた夏候惇からのメッセージだったのではないか……そんなことを考えつつ、今回は終幕といたします。どぼん。
参考:魏書夏候惇伝 文帝紀 司馬朗伝 呉書呂蒙伝 甘寧伝
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