夏侯惇の部下だったこともある張遼。張遼の名前は三国志が好きな方なら、一度くらい耳にしたことがあると思います。
しかし張遼がどのような性格をしていたのか知っている方は少ないと思います。そのため今回は張遼の性格について紹介していきたいと思います。
呂布の武将だった勇将・張遼ってどんな人?
張遼は一体どのような性格だったのか、紹介する前に彼がどのような人物だったのかおさらいしたいと思います。張遼は前漢の時代に匈奴との交易で匈奴側を騙そうと画策した聶壱が子孫だったため、匈奴から恨みを避けるために姓を変えて張と名乗ったそうです。
その後張遼は丁原に仕えますが、董卓の誘いに乗った呂布によって丁原が殺害されると一時的に董卓に仕えた後、呂布に仕えることになります。
その後張遼は呂布と一緒に行動し、曹操に敵対していましたが、呂布が曹操に敗北した後、曹操へ仕えることになります。張遼は曹操へ仕えると袁紹の息子・袁譚と袁尚討伐戦で戦功を挙げ、烏桓討伐戦でも活躍しています。
その後張遼は合肥城に駐屯することになりますが、孫権軍が大軍を率いて攻撃を仕掛けてきます。張遼は李典と一緒に孫権軍へ奇襲攻撃を仕掛け、大勝利を収めた後、撤退する孫権軍に追撃をかけ、孫権を追いつめることに成功しています。
このように張遼は曹操の配下になった後、どの戦場でも活躍する戦巧者として知られている人物です。上記で張遼がどのような人物かをおさらいした所で、彼がどのような性格だったのか紹介したいと思います。
勇将・張遼の性格は他人と仲良くできない性格!?
張遼はどのような性格なのでしょうか。正史三国志には張遼がどのような性格だったのか詳細に記されていませんが、ある程度予測することができます。
例えば張遼は楽進と李典の二人とチョー仲が悪く、合肥城に一緒に駐屯している時はほとんど口も利かない状態でした。
また張遼は于禁ともあまり仲が良くなく、協力して敵と戦うような事をしませんでした。他にも張遼は武周という人物と些細な事で喧嘩をして仲が悪く色々な人物と仲が悪かったようです。
しかし張遼は曹操を困らせていた賊徒・昌豨を説得して降伏させたり、臧覇達と連携して賊討伐戦で活躍している所を考えると、他人と仲良くできないのではなく、他人と付き合うのが下手な性格だったのかもしれません。
悪い所はすんなりと認める性格をしていた張遼
張遼は上記で他人と付き合うのが下手な性格だと紹介しましたが、悪い所を指摘されるとすんなりと認める性格でした。張遼は武周と喧嘩をしたと上記で紹介しましたが、その後胡質が「今まで将軍は武周殿を褒めたたえていたのにわずかな事で仲たがいをして険悪な状況になってしまいました。
武周殿は正しい人物ですから仲直りしたほうがいいのではないのでしょうか」と張遼へアドバイスを行います。張遼は胡質の言葉を聞いて自分の非を認め、武周に頭を下げて謝罪し、その後再び仲直りしたそうです。
このことから張遼は自分の悪い所をすんなりと認めることのできる人物だったと思われます。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は張遼の性格について紹介してきましたが、最後に一つだけ張遼の性格をここで紹介して終わりたいと思います。
張遼は怯む事を知らない勇気に富んだ性格の持ち主でした。張遼が活躍した合肥城攻防戦の時も少数精鋭の部隊を率いて、大軍の孫権軍へ突撃しています。他にも陳蘭と梅成の賊は曹操へ反乱を起こし、山も高く、道幅も狭く人が一人通れるくらいの場所に陣営を設け、張遼率いる討伐軍に抵抗。
張遼は道が険しい事もあり大軍で攻撃できない事から、一人で彼らの陣営へ向かおうとします。すると張遼の部下達は「将軍危険ですからやめてくださいと」説得。しかし張遼は「ここは道幅が狭く人が一人通るのがやっとで、一対一の戦いの方が有利。私は自分を勇者だと考えているから進むことができる!!」と自信過剰な発言を配下に言って進んでいきます。
張遼配下の武将達も張遼一人で行かせるわけにはいかないので、一緒に進んでいきます。その結果、張遼軍は陳蘭と梅成を討ち取り、彼らが率いていた賊軍をすべて捕虜にすることに成功する功績を挙げるのでした。合肥城攻防戦や上記で紹介した賊徒討伐戦から張遼が怯む事を知らない勇気に富んだ性格だったと言えるでしょう。
■参考 正史三国志魏書・張遼伝など
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