【三国志演義深読み】どうして張遼は丁奉の矢で戦死するのか?

2018年9月28日


 

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三国志演義の張遼

 

()の猛将張遼(ちょうりょう)合肥(がっつぴ)の戦いでは800名の決死隊で孫権(そんけん)の10万の大軍を圧倒し劣勢の魏軍を勝利に導いた人物ですが、演義におけるその最後は、呉の丁奉(ていほう)の矢を受けて落馬し、その傷が元で死んでしまうというショボいものしかし、史実の張遼は病身を推して出陣し、呉の呂範(りょはん)を破って後に病死しています。

 

はてなマークな劉備と袁術

 

どうして、正史と演義ではこんな違いが出てきてしまうのでしょうか?

今回は、その点について考えてみます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備を引き立てる為に損な役回りを引き受けているのか?

劉備を引き立てる為に損な役回りを引き受けているのか?

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)は、非常な劉備&孔明(こうめい)びいきで構成されているので劉備や孔明に対して好意的な存在は善玉として描かれ逆に敵対する存在は実物以上に卑小で悪党な人物にされてしまいます。

 

公孫瓚と劉備

 

例えば公孫瓚(こうそんさん)が、劉備の兄貴分という立ち位置なので好意的に描かれ周瑜(しゅうゆ)は孔明を引き立てる為に嫉妬深い陰険な人物にされています。

 

関羽

 

この演義の法則に照らすと張遼もそうなりそうですが、実際には張遼は関羽(かんう)とは兄弟のような間柄として描かれており、三国志演義では好意的に描かれている敵キャラの一人です。

 

関羽の青銅像

 

関羽は名将なので関羽と交流がある張遼も名将として描かれるわけですね。

顔良と文醜

 

もちろん、それでも関羽よりは弱いと印象付ける為に、関羽が斬殺した顔良(がんりょう)文醜(ぶんんしゅう)相手に苦戦するという形で一種の噛ませ犬の役割を引き受けている点はいなめませんが顔良と文醜自体が猛将扱いなので、そこまで評価は下がりません。

 

張遼 カカロットーーーー!

 

このように張遼は曹操配下でありながら演義では重んじられており、劉備や関羽の引き立てにされている印象は弱いです。

 
 

 

劉備の死の時期と被った事が張遼の不運の理由

劉備の死の時期と被った事が張遼の不運の理由

 

張遼の不運、それは死んだ年が劉備最後の戦い夷陵会戦(いりょうかいせん)の年だった事です。

 

皇帝に就任した曹丕

 

実は、西暦222年は西では夷陵の戦い、東では濡須口(じゅすこう)の戦いが起きており、曹丕(そうひ)が自ら親征して、曹休(そうきゅう)曹仁(そうじん)、張遼、臧覇(ぞうは)夏侯尚(かこうしょう)張郃(ちょうこう)徐晃(じょこう)など

名だたる名将が参加して孫呉と覇権を争いました。

 

陸遜

 

夷陵の戦いが陸遜(りくそん)の消極的な撤退戦術と蜀軍がだらだらと展開していく最後の大規模な焼き討ち以外に目玉が乏しい戦いであるのに比べて、

 

陸遜

 

濡須口の戦いは内容が締まっており、もし三国志演義に並べて記載すると劉備最期の戦いが、完全にピンボケする恐れがありました。

 

劉備の臨終に立ち会う孔明

 

夷陵の戦いの次は劉備が白帝城で病没し、主人公が諸葛亮(しょかつりょう)に代わる大事な会もちろん、ここにも濡須口の戦いを挟む事は出来ません。そこで、三国志演義の作者たちは、濡須口の戦いをほぼスルーし、張遼の寿命を二年程伸ばしました。

丁奉

 

代わりに黄初5年、西暦224年に曹丕が広陵を攻めて徐盛(じょせい)偽城計(ぎじょうけい)に掛り退却してしまった話と、翌黄初6年、曹丕が再び広陵を船団で攻めて長江が凍結するという事態になり、船団が立ち往生して退却したのを孫韶(そんいん)が部将の高寿(こうじゅ)を使って要所要所に伏兵させて、大いに曹丕を破った戦いをミックスさせて、その途中に張遼が曹丕を庇い、丁奉の矢に当たり戦死するという話を組み込んだのです。

 

馬に乗って戦う徐晃

 

ここでの張遼は華々しい活躍もなく、丁奉の矢に倒れて同僚の徐晃に救われるも矢傷は重く、回復しなかったという筋立てでした。病を推してまで従軍し、呂範を撃破した不屈の将軍という印象は弱くなり随分、年も取っていたから矢傷は堪えたんだろうなという幕引きですね。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

張遼は、三国志演義の前に流布していた三国志平話においては、智嚢(ちのう)先生と呼ばれ、魏における軍師役を担わされていました。それだけ、昔から知名度が高い登場人物だったのでしょう。

 

羅貫中と関羽

 

加えて関羽とも兄弟のような間柄とされては、三国志演義の作者達にとっても蜀とぶつからない限りは、讃えて損はないキャラクターなのです。その点は、どうしても諸葛亮に被る為にdisられずにはおかない周瑜との大きな違いです。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

しかし、惜しむらくは、西暦222年という劉備が夷陵の戦いで敗れ翌年病死するというタイミングで手柄を立てて病死した為に劉備ageの三国志演義の方針には合わず、丁奉の矢で殺されるという寂しい最期になってしまったのです。

 

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