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鍾毓(しょういく)とはどんな人?風格のある人柄で秀才の誉れ高い魏の臣

2016年3月26日


 

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父・鍾繇(しょうよう)は大任である西方鎮撫を見事に勤め上げ、曹丕(そうひ)から「偉人」の一人として褒め称えられます。弟・鍾会(しょうかい)司馬師・司馬昭の参謀役として活躍し、蜀討伐に貢献した人物です。では鍾会の兄である鍾毓(しょういく)は一体どのような人物であるのか紹介していきたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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鍾繇の嫡男として生まれる

 

鍾毓(しょういく)は西方鎮撫の大任を勤め上げた魏の功臣鍾繇(しょうよう)の嫡男として生まれます。彼は十三歳で散騎侍郎(さんきじろう)に就任。彼の性格は穏やかな性格で人から好まれ、父と同じ風格を持ち、将来を期待されておりました。また彼の弟である鍾会(しょうかい)は幼いころから頭が良く、彼も将来の魏国担う人材として周りから認められておりました。

 

曹丕との会見

曹丕 残忍

 

文帝曹丕は鍾繇の息子達が優秀であると聞き、彼らを呼びます。鍾毓と鍾会の兄弟は曹丕に招かれて宮殿に向かいます。鍾毓は曹丕と会うと緊張のあまり、額から汗を流します。曹丕は「鍾毓。汗を流してどうしたのだ」と質問。

 

彼は「皇帝陛下と会見し、緊張のあまり雨のように汗を流しているのです。」と答えます。

 

曹丕は頷き、鍾会の方へ眼を向けます。鍾会は汗一つ流さず、座っておりました。曹丕は「兄はあんなに緊張して、汗を水のごとく流しておるのに、お主はなぜ汗を一粒も流さないのだ。」と質問。

 

すると鍾会は「私は普段からあまり緊張せず、汗も流さないのです」と立派に答えます。彼らのこの答えに満足した曹丕は彼らに褒美を与え、下がらせます。

 

孔明の敗退を予測

孔明

 

孔明は打倒魏の旗を掲げ、蜀軍を率いて祁山(きざん)へ進出します。蜀軍に呼応して安定・天水・南安の三軍が蜀に寝返ります。曹丕の跡を継いだ明帝曹叡(そうえい)はこの事態に危機感を感じ、自ら兵を率いて孔明率いる蜀軍の迎撃するため、出陣しようと考えます。鍾毓は「陛下。大将は慌てず、騒がず、中央でどっしりと構えていればいいのです。蜀は必ず撤退するのでご安心ください。」と皇帝自らの出陣に反対意見を述べます。明帝は鍾毓の進言を受け入れ、出陣を取り止めます。その後馬謖率いる蜀軍が街亭で敗れた為、蜀軍は撤退。鍾毓の予見通りに事が運んだ為、明帝は彼を散騎常侍(さんきじょうじ)に昇進させます。

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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