222年の夷陵の戦いでは、寡兵ながら深謀と的確な判断によって経験豊富な劉備を撃退して名声を得た呉の英雄・陸遜。234年の合肥新城を巡る戦いでは、江夏から襄陽に侵攻していた陸遜は、敵の虚を突いて見事に撤退しました。
曹叡(明帝)は、陸遜の用兵は孫子・呉起に匹敵すると称賛しています。今回は、魏にも蜀にも恐れられた人物・陸遜の改名の謎に迫ります。
三国志正史・呉書
三国志正史の呉書には、陸遜についてこう記されています。
「陸遜字伯言、呉郡呉人也。本名議、世江東大族」
陸遜の字(あざな)が伯言であるという点は問題ないのですが、本名は「議」であるというのです。つまり当初は陸遜ではなく、「陸議」だったということになります。陸遜は、君主以外で単独の伝を編纂されているほどの重要人物です。これに該当するのは他に蜀の諸葛孔明しかいません。
陸遜伝では以降すべて陸遜の名で統一されています。改名の理由、時期についての詳細については、正史の著者の陳寿だけでなく、後に注釈を施した裴松之も触れていません。
本名が陸議なのは間違いない
唯一、呉書では周鮑の伝でのみ、陸遜のことを陸議と呼んでいます。実に不思議な話です。同じ呉書でも一方では陸遜と記し、一方では陸議と記しているのです。
ただし、周鮑の伝についてだけは、魏の曹休を欺くための手紙の内容で陸議と触れられています。つまり、他国に対しては陸遜ではなく、陸議の名が広まっていたということの証です。仮に手紙に、陸遜と書いても、「誰それ? 1年目のルーキー?」みたいな感じになって、策略は失敗してしまったことでしょう。
改名は珍しいことなのか
日本の戦国武将だと、改名するのはごく一般的な話なので誰も驚きません。江戸幕府を開いた徳川家康ですら、元は松平元康と名乗っていましたし、幼名は松平竹千代です。姓も名もまったく違いますね。
三国志では黒山賊の頭目である張燕が、以前の頭目だった張牛角の死去の際に褚燕から張燕に姓を改めています。曹操の軍師のひとり、程昱も元は程立でしたが、曹操のアドバイスによって程昱に改めました。現代だと有名人が改名すると、ネット上は大騒ぎになるでしょうが、昔は特別なことではなかったのかもしれません。ちなみに「くりぃむしちゅー」の以前のコンビ名は海砂利水魚というヒール感たっぷりの名前でしたが、罰ゲームで改名しています。
なぜ陸遜は改名したのか
まさか陸遜が、改名をかけた勝負に負けて、その罰ゲームとして、陸議から陸遜になったとは考えにくいですね。確率的には1%ほどでしょう。確率が低い理由は、「陸遜が負け知らずだった」と史実が立証しているからです。ではなぜ改名することになったのでしょうか?これは「三国志十大ミステリー」のひとつなので、正解は不明ですが、諸説あります。
単なる気分転換とか、主君である孫権の命令とか、宋の太宗の諱を避けたとか。明智小五郎をリスペクトする私が推理するに、陸遜は、敵対国が「魏」なので、同じ響きの「議」を嫌がったのではないでしょうか。なので、呉の国内ではかなり以前から陸議ではなく、陸遜と名乗っていたのです。しかし、インターネットが普及していなかったこともあり、他国にまでは浸透しなかったと考えられます。
三国志ライターろひもとの独り言
おそらく、シャーロックホームズをリスペクトしている江戸川コナンくんが推理すると、また違った仮説が立てられることでしょう。そして、「真実はいつもひとつ!」とか言われて、私の仮説は真っ向から否定されるはずです。私は完全にコナンくんの引き立て役ですね。いいです。それでも。真実が明かされるのであれば……「そうだ、毛利探偵事務所に聞いてみよう!」
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