三国志に登場する武官や文官たちには、姓と名の他に字(あざな)が記録されている者と、まったく伝わっていない者に分かれます。
猛将と呼ばれる人物の中にも顔良や文醜、厳顔、牛金、馬岱などは字が不明です。今回はその中でも曹操から絶大な信頼を得ていた「典韋 」をご紹介いたします。
典韋が死亡した年
典韋の出身地は兗州の陳留郡ですが、何年に生まれたのかは伝わっていません。ただし、死亡した年は記録されています「197年」のことです。
ちょうど袁術が寿春の地で皇帝を自称した年にあたります。徐州には呂布も健在で、河北では巨大な勢力を持つ袁紹が公孫瓚を滅ぼす寸前でした。そして荊州では劉表が存在感を示しており、宛城の張繍をサポートしています。その中心に曹操の勢力はありました。まさに中原が群雄割拠の様相を呈していたときに、典韋は死亡することになるのです。
典韋の死因
曹操にいち早く降伏したのは宛城の張繍でした。ここで曹操は張繍の叔父・張済(すでに戦死しています)の未亡人である鄒氏との情事に没頭してしまうのです。この不貞行為に怒り心頭の張繍は、軍師である賈詡に助言を求め、曹操の隙を突いて夜襲を仕掛けます。謀叛を起こしたわけです。
完全に油断していた曹操はなすすべなく敗れ、曹操の退路を死守するために親衛隊長の典韋は殿を務めて命が果てるまで戦い抜きました。最期は重傷を負いながらも敵兵を両脇に挟んで絞め殺しながら死亡しています。
息子の死よりも典韋の死を悲しむ
曹操は典韋の死闘のおかげもあり、命からがら脱出することに成功します。この間に典韋だけでなく長子の曹昂や甥の曹安民も曹操を逃がすために犠牲となっていますが、曹操がその死をもっとも悲しんだのが典韋でした。曹操は典韋の遺骸を奪還させ、告別式を開き、曹操自身も参加しています。また、その後もこの場所を進軍するたびに祭礼が行われるようになりました。それだけ典韋は曹操に貢献していたことを示しています。
ちなみに典韋は「悪来」とも呼ばれますが、こちらは字ではありません。剛力の士として知られた殷の紂王の配下・悪来の再来だと曹操が感嘆したためにそう呼ばれているのです。これは「三国志演義」の脚色になります。
典韋の武器と武勇
典韋は誰も持ち上げられない牙門旗を片手で持ち上げるほどの怪力の持ち主で、重さ80斤の双戟を愛用していました。
三国志演義では、張繍は謀反を起こす前にこの武器を盗んでおり、典韋は最終的に敵兵二人を双戟の代わりにして戦うという離れ技を演じています。(片手で大人一人を持ち上げて振り回すのです。超人の域ですね)
呂布軍と戦った際には、部下に敵兵が近づいたら知らせるように指示し、五歩手前に近づいた敵に次々と戟を投げつけて、百発百中の腕前で倒しています。典韋は怪力だけでなく、手先も器用だったようです。ちなみにゲーム・三國無双では手斧が武器で、巨体にスキンヘッドというインパクトのある容姿になっています。
三国志ライターろひもとの独り言
三国志演義を出典とすると、典韋は遠巻きに矢を射られて全身がハリネズミのようになっても敵を通さずに戦って死亡しています。まるで義経を最期まで守った弁慶のようですね。まさに忠義の士の鏡といえるでしょう。
ただしもともとの主君は曹操に殺された陳留郡太守・張邈だったようです。その後、夏侯惇が見出し、曹操のお気に入りになるわけですが、その辺りの典韋の心情の変化や詳細が気になりますね。やはり曹操の器量に惚れ込んだのでしょうか。
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