三国で一番ちっぽけな蜀(しょく)を粉骨砕身して支え続けた泣かせる宰相、諸葛亮(しょかつりょう)。彼が四十七歳にしてようやく授かった息子の、名前の付け方が、これまた泣かせるのです!
※年齢は「満」ではなく「数え」で書いております
男の子がとっても欲しかった諸葛亮
ううむ……蜀を粉骨砕身して支え続けた泣かせる宰相ですか。っていうか独裁体制でブイブイ言わせてたんじゃないの。という個人的な偏見はさておき。諸葛亮は長年男児に恵まれず、兄の諸葛瑾(しょかつきん)の次男諸葛喬(しょかつきょう)を養子に迎えております。これがいつ頃のことであったか不明ですが、諸葛喬のもとの字(あざな)が仲慎(ちゅうしん)であったのを、養子になって伯松(はくしょう)と改めたという記録がありますので、字を名乗るような年齢になってからのことであったはずです。
(誕生と同時に字を決めておくこともありますが、それを使うのは成人後ですから、まだ人に知られていない字のことをわざわざ字を改めましたなんて記録されるわけないので、大きくなってからのはず)十五や二十歳にはなっていたことでしょう。
養子をもらった時期を想像してみる
二十歳の時に養子になったと仮定すると、そのとき諸葛亮は四十三歳です。この年まで男児に恵まれなかったから、このままでは無理なのかも……と考え始めそうなお年頃ですね。この年には蜀の初代皇帝・劉備(りゅうび)が亡くなっているので、いよいよ自分の双肩に国政がのしかかってくるなぁとか、外征を手がけて忙しくなるかもしれん、とか考えて、家庭面での悩みをさっさと解決しとこうと思ったら、跡取り息子が欲しくなりそうな感じですよ。
劉備在世中は険悪だった呉との外交が劉備崩御のこの年に回復しましたから、呉にいる諸葛瑾との連絡もとりやすかったことでしょう。ま、これは単なる想像です。
待望の実子が誕生
諸葛亮四十七歳、諸葛喬二十四歳の時に、諸葛亮に男児が授かりました。もう授からないのかな、と諦めた頃に授かった、っていう話、世間でもよく聞きますよね。年がいってからの赤ちゃん、可愛かったでしょうねぇ。諸葛亮の親ばかエピソードはこちらの過去記事にございます↓
実子を授かっても、養子の諸葛喬のことも諸葛亮はちゃあんと大事にしてまして、将来に期待していたそうですが、この諸葛喬さん、残念ながらこの一年後に亡くなっています(まさか誰かがよからぬ「忖度」をして何かしでかしたんじゃあるまいな……まさかね……)。劉封(りゅうほう)の最期が頭にちらつきますが振り払うこととします。劉封の最期につてはこちら↓
可愛い坊やの名前、どう付けた?
五十手前にして授かった待望の男の子に、諸葛亮は「瞻(せん)」と名付けました。諸葛瞻(しょかつせん)です。瞻という文字、「仰ぎ見る」とか「遠くを見やる」とかいう意味です。この文字を見て、儒教的教養のある人が真っ先に思い浮かべるのは『詩経(しきょう)』の「陟岵(ちょくこ)」という詩でしょう。
【原文】
陟彼岵兮 瞻望父兮
父曰嗟予子 行役夙夜無已
上慎旃哉 猶來無止
【書き下し文】
彼の岵(こ)に陟(のぼ)りて 父を瞻望(せんぼう)す
父は曰(い)えり 嗟(ああ)予が子よ 役に行きては夙夜(しゅくや)已むこと無からん
上(ねが)わくは旃(これ)を慎めや 猶(な)お来れかし止まること無かれ
【訳文】
岩山に登って、(はるか遠い故郷の)お父さんがいる方角を眺めやる。
お父さんはこう言っていた。我が子よ、兵役についている間は
朝も夜も休むいとまもないだろう。慎重に行動しておくれ。必ず帰ってくるんだぞ。
戦場に止まったきり(←戦死のことを婉曲に言っている)にならないように。
いま挙げたのはこの詩の父バージョンの部分で、このあと似たような構造で母バージョンと兄バージョンの詩句が続きますが、いずれも、遠征に出かけている兵士が故郷の方角を見やりながら出征前に家族が言ってくれた言葉を思い出すという内容です。
三国志ライター よかミカンの独り言
諸葛瞻が生まれた西暦227年は、諸葛亮が首都の成都(せいと)を離れて対魏(ぎ)戦略の前線基地である漢中(かんちゅう)に駐屯し始めた年です。これから北伐(ほくばつ)を開始して、何年も家には帰れなくなることを覚悟していた矢先です。そういう時期に生まれた坊やに「父を瞻望(せんぼう)す」という詩句にある「瞻」という名前を付けたのは、自分が遠征に出かけて息子の近くにいてやれなくなることが分っていたからでしょう。年とってからの可愛い坊やを残して前線へ行く諸葛亮の心中はいかばかりであったろうかという、泣かせるお話でした。
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