今回は満寵の死因について考察したいと思います。満寵と言えば魏の重臣にして名臣、特に後年の合肥の守護っぷりから、誰が呼んだか孫呉キラーの呼び名をほしいままにしている三国志の武将の一人。そんな満寵は死因はどんなものか?そしてその背景からどんなことが考えられるか?
満寵の死因のみならず、色々な面から満寵を見ていきたいと思います。
この記事の目次
満寵その生涯と三国時代の背景を見てみる
さて満寵の生涯のスタートは18歳の時に山陽郡の役人になった時からと言って良いでしょう。この際に満寵がどう影響したかは不明ながら、乱暴者が二度とその悪辣さを発揮できなくなったという話もあるように、督郵の横暴さにこれを逮捕、その場で拷問致死させるという苛烈な一面を見せつける満寵。
曹操の配下に迎え入れられた際にも曹洪配下の将の略奪を逮捕し、この件を曹洪が曹操に働きかけると即座にこの将を処刑してしまうなど、苛烈さだけでなく法への厳しさも持ち合わせている人物だということが良く分かります。
曹操もこの満寵の行動を称賛しているので、特に漢の時代に十常侍を代表とする高官の政治腐敗、更には乱れた世の中ゆえの法の乱れ、これを正すべき人物が求められていた……少なくとも曹操には、ということが感じられます。乱れている世を正すには、時として苛烈さも必要ということではないでしょうか。
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満寵の重要性とその業績、三国時代への歴史への影響
そんな満寵の国、つまり魏へ残した大きな業績と言えば、やはり合肥の守護者としての活躍っぷり。満寵は賈逵の死後に豫州刺史を兼任し、曹休の死後に都督揚州諸軍事となりました。そして始まる230年、冬の寒さも厳しくなってくる最中、孫権が再び合肥に攻め寄せ始めます。
ここから始まる孫権による五年近く続く毎年の風物詩、合肥侵攻。これを毎年のように満寵は追い返し、更には合肥新城までも築き上げて、孫呉の侵攻から合肥を守り抜きます。
因みに238年に満寵は中央に召喚され太尉となるのですが、これが「満寵が年を取ったため」であることを踏まえると、老年にもなりながら呉との最前線で戦い続けていたことになります。張遼も病を押して戦おうとしていますし、魏にとって合肥は守らなければならない重要な拠点ということが分かりますね。
逆を言うとここがもし落とされていたなら、ここを足掛かりに孫呉の猛攻が始まった可能性も無きにしも非ず。そう思うとここを満寵が守りきれたのは、三国志の歴史、そうして三国志演義への影響もまた大きいと言えるのではないでしょうか。そうなると満寵が後世に与えた影響はかなり大きいということになります。
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満寵に纏わる逸話、長身さか?遺伝性か?
なお、満寵は体格が良く、8尺、つまり約190㎝もの高身長であったとされています。これは遺伝性のものであったのか、子の満偉、孫の満長武と満奮も同じように8尺あったとか。
これが影響したのかは分かりませんが、世語によると満寵は王淩からの上奏で「満寵は酒浸りになっていて仕事しません!」と報告され、これを確かめるべく曹叡が満寵に酒を進めると1石……約180Lも飲んでも平然としていたとしてこの疑惑が晴れたとされています。これは体格が良かったからなのか、遺伝なのか。
ただこの話が影響したと思われるのが三国志演義での禰衡さんによる魏将ディスりタイム~ポロリもあるよ(曹仁と曹洪取り違えているよね?)~で満寵は「酒粕食ってろ!」と言われる始末。酒粕食べるだけのお仕事とかないと思うので、これ満寵だけ仕事させられていないのでは……?と思う話が挿入されています。此処の所、筆者の筆が冴えわたっているな……というポイントでもありますので、もしまだ未読の方がおりましたらぜひ、酒粕喰いの満寵をご確認ください。
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満寵の死因について考えてみる、歴史的文献から読み取れるものは……?
そんな満寵ですが、三国志によると242年3月死去と記録されています。
前述の記録などをみると酒の飲み過ぎによる肝硬変やらも疑いたくはなりますが、張遼のようにその前後に病気になったなどの記録もなく、読み取れる記述と言えば238年3月、つまり四年前に「老年のため中央に召喚」という記録のみ。このため考えられる死因としては、年齢、つまり加齢による自然死、というのが一般的でしょう。
その他ではストレスなども考えられなくはないですが、実は満寵に対する皇帝からの扱いはかなり厚遇と言って良く、家には余財がないということで「詔勅」によって物資が下賜され。子と孫2人が亭侯とされるなど、一族に渡ってその業績を評価されたと言えるでしょう。寧ろこれだけ手厚ければ、満寵的にはある種、安心して後を任せられたのでは……と思います。個人的には三国志の中でも、安らかに死を迎えられた人物と言えるのではないでしょうか。
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三国志における満寵と、現代における満寵の取り扱い
ここまで来ますとやはり満寵の働きとしては対呉、というイメージが強く、実際に多くの記録としては呉との合肥での戦いが多く残されています。
が、それでなお。それでもやはり現代で、そうして三国志演義やそれらを取り扱いしているメディアやゲームなどで満寵の立ち位置として注目するべきは「樊城の戦い」ではないでしょうか。
曹仁伝には記録はないものの、樊城で関羽を迎え撃つ際の、この絶望的状況、不運に不運も重なって本来ならば心から折れそうな所で踏みとどまったのは、曹仁と、その曹仁に補佐した満寵の進言あってこそ!
ここの関羽の猛攻もまた凄まじいのですが、それを防ぎ切った曹仁と満寵はもうどこかおかしいレベル、更には嘗て満寵が説得した徐晃の援軍と、ここのドラマティックさは魏ファンでなくとも熱くなるシーンだと思います。
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まだまだ満寵の今後に期待したい所さん……
と、ここで筆者が触れたいのが某三国志ゲーム。まだまだ触れた内容は少ないのですが……どうして魏に曹仁と満寵がいないのか!特に曹仁なんかはいない方がおかしい重鎮の中の重鎮だろう!!とかなーり、筆者は哀しみを抱えている所であります。しかしまだまだこれから、今後ぜひ、ぜひに曹仁と満寵の活躍を見たい、何なら他にも色々な武将の新しい一面を見せて欲しいな、と思っていますね。
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満寵と合肥について、今後ちょっと注目したい課題のようなもの
最後に少しばかり今後の満寵についての考察したい所を。満寵は合肥の守護者と化しましたが、この満寵について王淩が「酒浸り!」と上奏した一件、此れ実は満寵と王淩が合肥で職場を同じくしているのに、以前から本人たちが対立していたというのも理由の一つなのです。
ここで思い出して欲しいのが合肥で孫権のトラウマ製造マシーンと化した張遼、彼もまた合肥で以前から色々あった李典や楽進と職場を同じくしていたし、何ならこの後で諸葛誕と文欽という更に友好関係なにそれ?なメンバーが配属されています。
合肥は魏にとって大事な場所じゃなかったのか?だったら何でわざわざ仲悪悪メンバーを配置したのか?
この辺りの機微はまだまだ筆者には理解できておらず……ぜひ今後もこの辺りの背景も考察していきたいと思いますので、皆さんもぜひ共に合肥に思いを馳せていきましょうぞ!
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三国志ライター センのひとりごと
最後がちょっと満寵だけの話題からは反れてしまいましたが、逆を言うと仲の悪い同僚と配備されてしっかり守れてしまうから老年まで頼りにされていたんだろうな……とも考えられます。張遼も病を押して出陣しようとしている所を見ると、例え不仲であっても、それに捕らわれず国のために戦うことができる、そんな人材だからこそ派遣されていたのでしょうか。
満寵は苛烈な面があったと言いましたが、張遼もまたそういう一面が無かったという訳ではありません。そして二人とも、そうでありながらも国に頼りにされ、配下にも慕われていた。そういう二人だからこそ合肥を守護できて、後の世までその功績が称えられているのかもしれませんね。どぼーん。
参考:魏書満寵伝 曹仁伝 世語
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