陸抗(りくこう)は陸遜(りくそん)の次男で呉の晩年に出現した二世武将です。
彼は呉を滅亡させない為、必死に国を支えた名将としても知られる人です。
そんな彼と対決するのは、立花道雪(たちばなどうせつ)の養嗣子(ようしし)と
して迎えられた立花宗茂(たちばなむねしげ)です。
今回も三回戦で二人を比べてみたいと思っています。
この記事の目次
- 陸抗ってどんな人
- 立花宗茂ってどんな人
- 歴史を超えた二世武将対決開始
- Round1:偉い人におもねらない剛毅さ対決【陸抗編】
- 君主におもねらず毅然とした態度で反対意見を述べる
- 偉い人におもねらない剛毅さ対決【宗茂編】
- 朝鮮出兵
- 豊臣政権を取り仕切っている三成におもねらない
- 対決結果
- 第2Round友情対決【陸抗編】
- 荊州全域の軍事を任せられる
- 晋の名将羊祜との出会い
- 陸羊の交わり
- 第2Round友情対決【立花宗茂編】
- 朝鮮の戦がきっかけで親睦を深める
- 関ケ原の戦いに敗れ、領地を失う
- 清正に救われる
- 第2Roundの結果
- 第3Roundどちらが戦上手か
- どちらが戦上手か【立花宗茂編】・二人の名将を持つサラブレッド
- 北九州を転戦
- 激戦・立花山城の戦い
- 天下人から称賛される
- どちらが戦上手か【陸抗編】
- 歩闡の反乱
- 西陵城を囲む
- 西陵城攻防戦
- 歩闡の乱を鎮圧
- 最終Roundの結果は…意外な結末に
- 三国志ライター黒田廉の独り言
陸抗ってどんな人
三国志終盤に出現した武将ですので知らない方も多くいると思います。
その為対決に入る前に陸抗と立花宗茂の紹介をしていきたいと思います。
はじめに紹介するのは陸抗です。
彼は陸遜(りくそん)の次男として生まれます。
長男は早くに亡くなってしまったため、彼が陸遜の跡を継ぎます。
彼は陸家を継ぐと、着実に実績を積み上げ、
孫休(そんきゅう)が皇帝となった時、荊州全域を任される事になります。
その後、荊州をしっかりと治め、魏に付け入る隙を与えず
呉の国を守り通した名将です。
立花宗茂ってどんな人
陸抗をざっくりと説明させて頂きました。
詳しくは対決内容でお話しします。
さて次は立花宗茂を紹介します。
立花宗茂は猛将として近隣諸国にその名を轟かせていた
高橋紹運(たかはしじょううん)の嫡男として生まれます。
紹運は彼が生まれると高橋家を継がせるつもりでしたので、
幼少期から厳しく躾ます。
宗茂はよく父の期待に応え、高橋家の後継ぎとして立派に成長していきます。
そんなある日、父から「立花道雪殿の家の養子になる事が決まった。」と
告げられます。
宗茂は愕然としますが、父の言いつけに反抗せず、立花家の養子となります。
その後道雪から立花家の家法を厳しく鍛えられ、
道雪が亡くなると立花家の頭領となります。
宗茂が立花家を継いだとき、大友家は非常に厳しい状態でした。
島津家に耳川の戦いで敗北してから、島津家に領土を削り取られて行き、
宗茂の居城である立花山城も島津軍の大軍に囲まれ、
危機的状況に追い込まれます。
まだ立花家を継いで日が浅い宗茂ですが、果敢に島津軍に攻撃をかけ、
撃退に成功。
その後援軍にきた豊臣秀吉の軍勢に加わり、島津討伐戦に参加。
この討伐戦で宗茂は多大な武功を挙げ、
豊臣秀吉から「鎮西無双の勇将なり」と褒められ、大名として取り立てられる
事になります。
歴史を超えた二世武将対決開始
陸抗と立花宗茂両方の武将を紹介しました。
さてこれから歴史を超えた二世武将対決を開催したいと思います。
今回は三国志と日本の戦国時代、どちらに軍配が上がるのでしょうか。
Round1:偉い人におもねらない剛毅さ対決【陸抗編】
先行は陸抗です。
彼は晋の名将と言われる羊祜(ようこ)と親交を結んでおりました。
彼らは親交を深めていくと、自分たちの間で盟約を結び、
互いの領土に侵攻するのを止めます。
呉の皇帝である孫晧(そんこう)は、
陸抗が晋の羊祜と仲良くしていることを聞き激怒。
彼は陸抗に詰問状を送ります。
君主におもねらず毅然とした態度で反対意見を述べる
陸抗は孫晧から詰問状をもらうとすかさず返信します。
彼は皇帝である孫晧に「領土を治めるのに必要なことは信義です。
信義をもつ人が国からいなくなればどうなりますか。
民衆や臣下は陛下を見限り、呉の国はバラバラになってしまいます。
私は陛下から荊州を任されており、この地で信義を大切にして治めております。
もし私が晋に対して武をもって接すれば、晋の民衆は呉のことをどのように
思うでしょうか。考えてみてください」と伝えます。
暴君として知られた孫晧は、彼の言を受け入れ、
以降彼をとがめることをしませんでした。
呉の皇帝孫晧におもねる臣下が多い中、陸抗は毅然と反対意見を述べ、
彼におもねることを生涯しませんでした。
偉い人におもねらない剛毅さ対決【宗茂編】
陸抗は君主におもねらない剛毅さを備えておりました。
さて立花宗茂はどのような剛毅さを表しているエピソードがあるのでしょうか。
朝鮮出兵
秀吉は天下統一すると、朝鮮出兵を始めます。
九州地方や四国・中国地方の大名が主に朝鮮へ出陣することになります。
宗茂も秀吉の命を受けて、朝鮮へ出陣します。
宗茂は朝鮮へ着くと、各地の朝鮮軍を蹴散らし、軍功を上げていきます。
その後、明軍が朝鮮を救うため、大軍を率いて援軍に来ます。
宗茂は海の如く押し寄せた明の大軍に対して果敢に迎撃して奮戦。
少ない軍勢で宗茂は数時間明軍と戦い続けると、
小早川隆景が援軍に来援し、明軍を撃破します。
豊臣政権を取り仕切っている三成におもねらない
朝鮮の軍を統率するため秀吉は、石田三成を軍監として派遣。
当時三成は豊臣政権を取り仕切っていました。
彼は諸大名の罪を見つけると罪を秀吉に伝えることが可能で、
何人もの大名が彼に罪を暴かれて、取り潰しにあっており
諸大名は三成を大いに恐れておりました。
そんな三成は宗茂に「あなたが明軍と戦って挙げた軍功は
すべて総司令官の武功になっているが、あなたが私に頼むのなら、
殿下に私があなたの武功を話してあげよう。」と恩を売ろうとします。
宗茂は三成のこの発言に激怒。
彼は三成に「治部少輔(ちぶしょうゆう=三成の官位名)殿。
貴殿は軍監としてこの地に来ているのなら、
ありのままを殿下に話すのが仕事であるはず。
それなのに私があなたに頼まなければならないとはどういうことだ」と
怒りをあらわにします。
三成は宗茂の筋の通った発言に対して反論できず、その場を去っていきます。
対決結果
両者おもねらず敢然とした態度で、反論している姿かっこいいですね。
さて今回の対決結果は……
立花宗茂に軍配を上げたいと思います。
第2Round友情対決【陸抗編】
第1Roundは立花宗茂(たちばなむねしげ)が陸抗(りくこう)に
勝利をおさめます。
第2Roundは友情対決です。
陸抗の友情エピソードを紹介していきたいと思います。
はたして陸抗は立花宗茂に勝つことができるのでしょうか。
荊州全域の軍事を任せられる
陸抗は軍事・内政共に秀でており、呉末期の名将として知られます。
そんな彼は呉の皇帝である孫休(そんきゅう)の時代に、
荊州全域の軍事を任されることになります。
当時の荊州は東の益州と北の魏の領地である荊州から圧迫を受けており。
非常に統治が難しい土地でした。
晋の名将羊祜との出会い
陸抗は呉の将軍である歩闡(ほせん)が反乱を起こした際、討伐に向かいます。
この時、歩闡の軍勢を救援するため、晋の将軍が救援にきます。
援軍に来た晋の将軍の名は羊祜(ようこ)といいます。
陸抗は晋の将軍羊祜と激闘を行って、何とか撃退。
彼は羊祜との戦いを通じ、羊祜の軍略の深さを認めます。
また羊祜も陸抗の包囲陣の構築の仕方に敬意を表します。
こうして二人はお互いを認めあうことになります。
陸羊の交わり
陸抗はその後国境を越えて羊祜と親睦を深めます。
ある日、陸抗が病にかかった時羊祜に「いい薬があったらいただきたい。」と
使者を送ります。
羊祜は陸抗の要望に応え、すぐに薬を送ります。
陸抗は羊祜から送られた薬を飲み、病を感知させます。
その後陸抗は薬を貰った薬の返礼として、お気に入りの酒を送ります。
羊祜は陸抗から送られた酒を受け取り、側近らと共に宴会をして
楽しく飲み干します。
こうして二人の親交を深め、互いの領地を攻め込まず、
徳で治めようと約束を交わします。
陸抗と羊祜の約束は果たされ、戦がなくなり、
荊州に住む晋・呉の民は富んでいきます。
この二人の交わりを後世「陸羊の交わり」として有名な交わりになります。
第2Round友情対決【立花宗茂編】
陸抗の友情エピソードを紹介いたしました。
さて次は立花宗茂です。
彼にはどういった友情のエピソードがあるのでしょうか。
朝鮮の戦がきっかけで親睦を深める
立花宗茂(たちばなむねしげ)は、豊臣秀吉が起こした朝鮮出兵に参加します。
宗茂は朝鮮に渡航し、各地を転戦します。
碧蹄館の戦いでは、明軍の大軍に恐れず獅子奮迅の奮闘ぶりを見せ、
勇猛ぶりを他の大名たちに見せつけます。
こうして各地で武功を挙げる宗茂の元に、
秀吉子飼いの大名である加藤清正から救援要請が来ます。
宗茂は清正を助けるため、手勢を率いて出陣します。
清正は蔚山城(うるさんじょう)で明の大軍に対して出撃することをせず、
籠城し、敵軍に対抗しておりました。
しかし敵の軍勢が多すぎ、いつ陥落してもおかしくない状態でした。
そんな中、宗茂の軍勢が到着し、清正と共に奮戦。
宗茂と清正二人の軍勢が奮戦している間に、他の大名が援軍に来たことで
形勢が逆転し、明軍を撃破します。
こうして清正は何とか一命をとりとめます。
蔚山城の戦い終結後、一番に駆けつけてくれた宗茂に感謝の意を表し、
この戦い以降二人は親しくなり、友情を深めていきます。
関ケ原の戦いに敗れ、領地を失う
宗茂は関ケ原の戦いで西軍につきます。
彼は秀吉から受けた恩を感じ、この恩に報いるため西軍に味方します。
関ケ原の戦いの本選には参加していません。
宗茂はこの時、
近江(おうみ)に領地をもっている京極高次(きょうごくたかつぐ)が籠る
大津城を攻撃し、陥落させます。
大津城陥落させたのは関ケ原の戦いの1日前で、大津城の戦後処理などに手間取り
その後行われた関ケ原の戦いに参加することができませんでした。
関ケ原の戦いの後、宗茂は軍勢を率いて自らの領地である柳川(やながわ)に
帰還します。
しかし彼が柳川の領地に帰るとすぐに、九州の東軍の諸大名が柳川城を包囲。
この包囲陣に宗茂の親友である加藤清正も加わっておりました。
清正は、宗茂の命を救うため宗茂に「宗茂よ。いかにお主が、
勇猛果敢な名将であったとしてもこの大軍を相手にして勝てまい。
命を捨てることは簡単だ。しかし家臣や領民の事を考えるべきだ。」と説得。
宗茂は清正の説得を受け入れ、柳川城を開城し降伏します。
その後宗茂は家康から領地を没収されます。
清正に救われる
宗茂は領地を失い、住む家や耕す家もなくなります。
この宗茂の苦境を見た清正は、朝鮮で助けてもらった恩を返すため、
自分の領地である熊本に彼を呼び、彼に一万石の領地を与え、
朝鮮で助けてもらった恩に報い、二人の仲は一層深まります。
しかし宗茂はいつまでも清正の好意を受け続けることに責任を感じたのか、
熊本の地を去り、江戸へ向かうことになります。
第2Roundの結果
さて二人のエピソードが出そろったところで勝敗を決めたいと思います。
第2Roundの勝敗は、陸抗なのか。
それとも立花宗茂がストレート勝ちをするのか。
結果は……
「陸羊の交わり」のエピソードを持つ、陸抗の勝利にしたいと思います。
第3Roundどちらが戦上手か
陸抗(りくこう)と立花宗茂(たちばなむねしげ)双方共に譲らず
とうとう最終ラウンドを迎えました。
最終ラウンドはやはり、名将の息子たちですので、
どちらが戦上手かを比べてみたいと思います。
どちらが戦上手か【立花宗茂編】・二人の名将を持つサラブレッド
立花宗茂は二人の名将を父に持ちます。
一人は大友家きっての勇将として名高い実父・高橋紹運(たかはししょううん)
です。
宗茂は15才の時、雷神として九州全域にその名を轟かせた名将・立花道雪
(たちばなどうせつ)の元へ養子に行きます。
宗茂は立花家に養子として迎えられた年、実父と共に初陣を飾ります。
彼は初陣で、敵の猛将を打ち取り、武功を挙げます。
ここから宗茂の戦人生が始まります。
北九州を転戦
宗茂は初陣を終えると、実父・紹運や養父道雪と共に北九州を転戦します。
彼は初陣後、毎年北九州の豪族や北九州の雄である竜造寺 (りゅうぞうじ) 家
などの群雄らと激戦を繰り広げます。
こうした戦いの中で宗茂は20歳前だというのに、
めきめきと力を付け大友家になくてはならない存在に成長していきます。
養父・道雪は宗茂が着実に成長していく姿を頼もしく思いますが、
竜造寺家討伐戦で道雪は病に倒れ、亡くなってしまいます。
宗茂は養父道雪の亡骸を居城である立花山城へ運び入れ、
若干20歳で立花山城の城主となり、立花家の当主になります。
激戦・立花山城の戦い
宗茂が当主となった翌年、耳川の戦いで大友家の軍勢を完膚なきまで叩き
大勝利を得た島津家が攻め寄せてきます。
島津家の軍勢は総勢5万と称し、立花山城と実父が籠る岩屋城が包囲されます。
実父である高橋紹運は手勢800ほどで5万程の島津軍に徹底抗戦。
紹運は獅子奮迅の働きを見せるも、岩屋城は落城してしまい、
実父運は討ち死にしてしまいます。
宗茂は大いに悲しみ、父紹運の敵を討つため徹底抗戦の決意を固めます。
彼は手勢3000の内半数を率いて、出撃。
島津軍の本陣に奇襲をかけ、多数の島津兵を討ち取ります。
その後も輸送中の物資を強奪したり、敵陣に積極的に攻撃を行います。
こうして激戦を繰り広げること数十日、天下統一に向けて邁進していた豊臣秀吉が
数十万の軍勢を率いて、九州地方にやってきます。
島津軍は秀吉の軍勢に恐れをなし、撤退を開始。
宗茂は援軍を待たず、撤退する島津軍に猛追撃をかけ、大戦果を挙げます。
天下人から称賛される
秀吉は宗茂の奮戦を伝え聞き、立花山城に着くと宗茂を呼び寄せます。
彼は宗茂と会うなり「お前か。島津軍5万に対して、
この城をたった3000人の人数で守り通すだけでなく、
積極的に敵陣へ攻撃を仕掛けたのは」と尋ねます。
宗茂は「ハイ」と短く返事をします。
秀吉は宗茂をじっくり見た後、大いに笑い
「剛毅な奴じゃ。おぬしこそ東の本多平八と肩を並べる鎮西(九州地方の事)
一の勇将であり、忠義も鎮西一じゃ。」と称賛され、
九州の平定が終わると秀吉から筑後柳川で13万石を貰う大名に出世します。
その後も朝鮮の戦いや関ケ原の戦いで活躍しその名を轟かせます。
どちらが戦上手か【陸抗編】
青年期から戦を続けてきた宗茂は秀吉からその戦ぶりを褒められ、
鎮西一の勇将と褒められます。
さて陸羊の交わりで後世までその名を遺した陸抗は宗茂に対抗できるのでしょうか。
歩闡の反乱
陸抗は孫休の時代、荊州全域の軍事を担う都督に任命されます。
大国晋につけるすきを与えず、しっかりと守り通していた陸抗ですが、
西陵の城主である歩闡(ほせん)突如呉を裏切り、晋に降伏。
西陵城は晋と呉の要所であり、異民族を統治する重要な城でした。
そのため前城主であった陸抗は、この城を晋の圧力から守るため、
防御工事をしっかりと行い、鉄壁の城と化しておりました。
この大事な城が敵に寝返った事で荊州の西側の領域が呉の元を離れ、
荊州全域危機に陥ります。
西陵城を囲む
陸抗は歩闡が寝返った事を知るとすぐに軍勢を出陣。
彼は西陵城に着くと城から兵を出さないようにするため、
昼夜を分かたず包囲陣の突貫工事を行います。
晋は陸抗が南荊州の中心地である江陵(こうりょう)の守備を減らして、
西陵城に救援に赴くことを知ると、羊祜(ようこ)に大軍を授け、
江陵城攻撃を命じます。
陸抗の部下達は江陵城に晋の大軍が南下している情報を伝え聞くと、
彼に「西陵城の包囲を解き、すぐに江陵に戻るべきです」と進言。
しかし陸抗は諸将の反対を聞き入れず、西陵城の包囲陣を完成させます。
この包囲陣は敵の兵が一人も外に出られほど重厚で、
西陵城を救援に来る晋軍に対しても、対応できるように完成させます。
西陵城攻防戦
陸抗は包囲陣を完成させ、敵の士気が低下し兵糧がなくなるのを待ちます。
晋は西陵城を救援するため、 大軍を差し向けます。
陸抗は晋の大軍がやってくると早速、迎撃の陣を敷きます。
晋の大軍がやってくると、味方の諸将の中から敵に寝返るものが出て、
陸抗軍は大混乱に見舞われます。
彼は自軍が大混乱に見舞われる中、すぐに手勢を率いて反乱軍を討伐。
そして援軍に来た晋の軍勢を撃退する離れ業を見せます。
その後も西陵城を救うために、何度も晋軍がやってきますが、
そのたびに勝利を重ねます。
歩闡は晋の援軍が幾度も敗れている状況を見て、がっかりします。
歩闡の乱を鎮圧
陸抗は晋の援軍を幾度も蹴散らし、勝利を重ねます。
彼は城に籠る兵士達の士気の高さを確認するため城へ攻撃を仕掛けます。
西陵城は陸抗の攻撃に抵抗します。
しかし初めの頃のような激しい抵抗を見せませんでした。
陸抗は西陵城の抵抗が弱まっていることを確認し、翌日西陵城へ猛攻を開始。
西陵城は陸抗の猛攻を受け抵抗を試みるも、
兵糧少なく、兵士の士気も低下している状態でしたので、
激しい抵抗を見せず、城は陥落。
晋の大軍と味方の将軍の裏切られながらも、冷静に状況を把握し対応することで
苦境を脱し、西陵城で反乱を起こした歩闡の反乱を鎮圧。
最終Roundの結果は…意外な結末に
味方に裏切られ、苦境に立つも反乱軍を討伐に成功した陸抗。
青年期から戦に明け暮れ、その名を全国に轟かせた勇将・立花宗茂。
さて一体どちらに勝利がもたらされるのでしょう。
勝敗は……。
Drawです。
二人の名将に甲乙がつけがたく優劣を決めることができませんでした。
三国志ライター黒田廉の独り言
読者の皆様大変申し訳ございません。
二人の武将に優劣をつけることができませんでした。
勝ったほうの武将を紹介するつもりでしたが、
drawでしたので後日、立花宗茂の武将紹介。
そして陸抗ですが以前はじさんで紹介させていただきました。
そのため「陸羊の交わり」について深く紹介させていただきます。
「今回の武将対決はこれでおしまいにゃ。
次回もはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~。」
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