三国志の動乱の魁になったのが黄巾賊の乱です。
この反乱を漢王朝は自力で鎮圧できず、在野の群雄を頼った事で、
それまで権力に接近できなかった身分が低く実力のある人間が
権力の中枢に入ってくる事になっていきます。
しかし、そんな黄巾賊の反乱とは、中国の一体どこで起きていたのでしょう?
中国の3分の1で発生していた黄巾の乱
詳しくはいつもの通り、はじさんお手製の地図で確認して
欲しいのですが、黄色の範囲が黄巾賊が暴れまわった州です。
青州、豫(よ)州、冀(き)州、兗(えん)州、徐(じょ)州と、
五州に跨っている事が分ります。
当時の都、洛陽があったのは司隷ですから目と鼻の先です。
これなら、いつ果てるともない権力抗争をしていた宦官と外戚が
一時休戦して力を合わせたのも分ります。
この状況で喧嘩していたら、幾らなんでもアホでしょう。
さらにこれらの地域は、当時の中国でも文化が発展し人口も多い土地です。
ここで、黄巾賊が暴れるという事は、税収を激減させる大ダメージなのです。
黄巾賊の乱で、関係ない連中まで暴れ出す
太平道の教祖、張角(ちょうかく)は、兵数1万人の方という
信者の共同体を36持っていたので、実質兵力は36万人でした。
彼等が暴れ始め、その鎮圧に官軍がてこずると、それを見ていた
各地の山賊や盗賊の類も、これに便乗して、頭に黄色い布を巻き
「俺達も黄巾賊だー」と暴れ始めます。
それは、司隷のすぐ上の并(へい)州から冀州ラインでも発生します。
これを黒山賊といい、最盛期には100万を数えたという
凶悪な山賊の群れでした。
別に一枚岩ではなく、大小、様々な山賊の集合体で、
官軍が黄巾賊討伐で手が回らない隙を突いて、略奪を繰り返します。
また、揚州では、黄巾賊に似た、新興宗教が勃興し、装して
反乱を起こしました、劣化版の黄巾の乱ですね。
そして涼州では、漢王朝の混乱に乗じ韓遂(かんすい)が兵を上げて、
涼州を独立させようと画策するような事態になります。
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漢王朝は、義勇兵を解禁し、黄巾賊を撃破するが・・
官軍は、長年、異民族の小さな反乱などしか鎮圧した事がなく
大規模反乱に対応できない状況でした。
あまりの連戦連敗ぶりに危機意識を持った、宦官と外戚は、
長年の禁を破り、在野に広く義勇兵を募集して、黄巾賊と戦う人間を集めます。
その中から、在野では、孫堅(そんけん)であるとか、劉備(りゅうび)であるとか、
公孫瓚(こうそんさん)のような英傑が引き立てられ、
手柄を立てていくのです。
また、黄巾賊が清流派官僚と結託する事を恐れて、
20年以上、自宅軟禁をして政治に関与させなかった清流派の
儒教官僚を解放して政治に当たらせます。
その甲斐あって、黄巾賊は次第に撃破され、僅か数ヶ月で壊滅しますが、
一度、中央に引き立てられた在野や出世から遠ざけられた役人は、
2度と引き下がる事はありませんでした。
黄巾賊が滅んだ後、再び、勢力争いを開始した宦官と外戚は共倒れし
その権力の空白をついて、西涼の軍閥、董卓が洛陽に入城。
弱体化した漢王朝は、統制力を失い、英傑達は、それぞれ自分の才覚で、
敵の領土を切り取るという群雄割拠の戦国時代へ突入するのです。
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三国志ライターkawausoの補足
黄巾賊は、教祖の張角の死後も、その徳を慕う信者が残り、
教えを守って集団生活を送り、時々反乱を起こしていました。
その黄巾賊を手懐けて、勢力を拡大したのが曹操です。
実は、地図で示した黄巾賊の暴れまわった拠点では、
兗州、豫州、徐州が曹操の領地になっています。
ここは、黄巾賊の勢いが盛んだった所なので黄巾賊を抑えた
曹操にとっては、統治がしやすい場所になっていたのです。
ただ荒れ果てていたので、立て直すのは時間がかかりましたが・・