三国志は記録の不備により、生没年が分らない武将が結構います。
趙雲(ちょううん)も没年は分っても、生年が分らないので、
イメージでいつまでも若武者のような描き方をされていてお得です。
また、三国志ではメジャーな人中の呂布も、生年が分らない武将なのです。
一体、呂布(りょふ)はいくつまで生きたのでしょうか?
呂布自身が自分の年齢を知らない可能性も
呂布奉先は、并州(へいしゅう)五原(ごげん)郡、
現在の内蒙古自治区に生まれました。
出自は不明ですが、場所柄から匈奴(きょうど)と
漢族の混血、或いは純粋な匈奴だったのかも知れません。
父母の正式な記録もない事から考えると年齢不詳は、
彼が幼少期から孤児だった為に正確な年齢が分らない
という事だった可能性もあります。
丁原、董卓を養父としている事から考える
その後、呂布は持って生まれた武勇で
并州刺史の丁原(ていげん)の目に止まり、
中央に向かって出世するチャンスを掴みます。
さらに、洛陽に入ってからは、董卓(とうたく)に寝返り
丁原を斬殺、、数年後には、仲たがいから董卓も惨殺する
裏切りの人生をスタートさせます。
呂布はこの両者を養父にしているので、普通に考えると
20歳位は下だと思われます。
丁原の生年は不明ですが、董卓は138年生まれと書かれているので
仮に呂布を20歳マイナスとすると西暦158年が呂布の生年になります。
そうなると、呂布が董卓に見出されたのは、29歳、それから
11年活躍して40歳前後で最後を迎えたラインになります。
ちなみに船橋市の非公認キャラクター、ふなっしーも
138年生まれで董卓と同い年という事になります。
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劉備との関係で年齢を絞ってみる・・
また呂布は落ちぶれて、徐州牧だった劉備(りゅうび)を頼った時に、
自分を兄、劉備を弟として義兄弟の契りを結んでいます。
これも年齢で考えると、劉備は161年生まれなので、
呂布は劉備よりも上という根拠になります。
また、呂布は曹操に降伏した時に、性懲りもなく自分を
売り込もうとして、劉備に制止された事があります。
この時に、呂布は劉備を「この小僧が一番信用できない」
と罵ったようです。
原文 是兒最叵信者
ここに使用されるは「兒」は目下の人間を罵るときに使われる言葉で
具体的に劉備が呂布よりは年下だったという一つの証拠になります。
すると、呂布は西暦161年以前の生まれという事になるのです。
曹操相手には、かなり神妙な呂布
一方で、自分を捕らえて縛っている曹操(そうそう)に対して呂布は、
縄がきつくて敵わん、緩めて欲しいと温情に訴え、
さらには、曹操を明公(めいこう)と呼んで讃えています。
自信過剰な呂布にしては、かなり下手に出ている感じなのです。
それもこれも、この場を切り抜ける媚びだと言えばそれまでですが、
呂布の中には、曹操は自分より年上という感覚があったのでは
ないかと思うのです。
そのように考えると、曹操の生年155年よりは下で
劉備の年齢、161年よりは上という事になります。
そう考えると、やはり西暦158年頃が呂布の生まれであり
29歳前後から活躍しだし、40歳前後で死んだというのが、
年齢の推測としてはしっくり来るのではと思えます。
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三国志ライターkawausoの独り言
呂布の配下には、張遼(ちょうりょう)もいますが、
元は董卓の配下である彼は董卓の死後に呂布に付き従っています。
彼の生年は165年で、呂布よりも年下と考えると、
呂布に付き従うという行動にリアリティが出る感じです。
いかに強くても、自分より年下の男の手下に
張遼がつくとは考えにくいからです。
董卓を暗殺したのが呂布とはいえ、強い事は間違いないし
また自身より7歳位上でボスとして申し分は無かった。
そのように考えての呂布への鞍替えのような気がします。
本日も三国志の話題をご馳走様・・
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