曹操が兵法書としてこよなく愛したとされるのが「孫子の兵法書」です。
孫子とは一般的に春秋時代に生きた兵法家の孫武を指します。
曹操はこの孫子の兵法書に注釈をつけるほど研究していたと云われています。
孫子の兵法書は今なお様々な分野の人間に影響を与えるほどの内容で、研究対象となっています。
紀元前に書かれた兵法書が現代にも通じるということは凄いことです。
孟徳新書
字を読むことも珍しかった時代です。
書物と云ってもようやく紙が普及してきたような文化ですから、名士は別として、
そう簡単に孫子の兵法書に目を通せる人間はいません。
そこで曹操は兵法書のテキスト版のような形でわかりやすく解説した孫子の兵法書を書き上げます。
それが「孟徳新書」です。「兵書接要」とも呼ばれています。
槍や剣を振り回して戦うことしか知らなかった武将たちが
これを読んで兵法についての知識を深めました。
兵法書は機密文書ではない
この曹操の兵法書が他国に渡ったかどうかというと、
何らかの形で渡ったという見方が正解だと思います。
それによって兵法について学ぶことになった他国の武将も多数いたでしょう。
ただし、それによって曹操が困窮したことはなかったと思われます。
兵書接要はあくまでも孫子の兵法書の注釈書です。
曹操軍の組織を綴ったものではなく、曹操軍の兵法のすべてを語っているものではありません。
曹操軍の機密について書かれているわけではないのです。
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蜀の張松がそらんじた
現に益州の使者である張松(ちょうしょう)が兵書接要について一言一句そらんじてみせたと云われています。
曹操はそれを聞いて憤慨し、兵法書を焼いたという話も三国志演義には伝わっています。
曹操の器はそれほど狭くはないと思いますが、それほどメジャーな内容だったことは確かです。
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組織を変革しなければならなくなった徳川氏との違い
かつてこの日本でも軍の機密を敵に知られてたいへんなことになったケースがあります。
豊臣秀吉に重臣である石川数正を引き抜かれた徳川家康の場合です。
この場合は戦闘隊形から組織の全貌まですべてを知られてしまったために徳川家康はこれまでの軍法を改めて、
すべて武田流に変更したと云われています。
曹操の場合は、あくまでも兵法書のテキストですから敵の目に触れても危機的な状況に至ることはありませんし、
すでにその内容について知っている文化人も多くいたと考えられます。
曹操は勉強家
曹操の凄いところは様々な分野に興味を持ち、勉強し、その知識を活用した点です。
好奇心が旺盛で、頭脳明晰、それでいて努力家な部分が他の武将や英雄と一線を画していたと云えます。
この兵書接要を例に挙げても、曹操は知識を自分のためだけに活用せず、
知恵として万民のためにあろうとしたとも受け取れます。
国の文化の発展に寄与しようとする志を持っていたとすら思える曹操ですから、
他国全般に自らの注釈書が広がることも逆に喜んでいたのではないでしょうか。
逆に医術の権威であった華佗は後世にその知識を伝えることを断り獄死しています。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
日本の戦国時代の武将は武田信玄の風林火山に始まり、皆、孫子の兵法書について勉強をしていました。
戦場ではその知識を活用しながら臨機応変に戦ったのです。
もちろん孫子の兵法書について知っているのと知らないのでは戦いに大きな差が生まれてくるでしょう。
しかし曹操がそのようなハンデで勝っても喜ぶことはなかったのではないでしょうか。
強敵を倒すことが曹操にとっての楽しみでもあったはずです。
その点において兵書接要の普及は曹操にとって
願ったり叶ったりの状況だったのかもしれません。
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