魏、呉、蜀の三国時代で、勢力は2番目だけど、一番地味な国が呉です。
その煽りで孫権も君主にまで昇りつめながら地味な存在です。
さて、この孫権ですが、日本史では誰に相当するでしょうか?
従来の説では、安定型の徳川家康というのがありますが、
人質時代を経験し、武田信玄にもう一歩で打ち取られるような危ない橋
(三方ヶ原の合戦)渡った家康と、ボンボンの孫権とは違う点も多いです。
そこで、調べてみると共通点がある戦国武将がいました。
孫権と共通点のある戦国武将とは?
それが、小田原北条氏の3代目である北条氏康です。
北条氏康は、西暦1515年に、戦国武将北条氏の当主、
北条氏綱の嫡男として生まれました。
氏綱の父は、戦国時代の下剋上の典型と言われる北条早雲です。
何となく、低い身分から成り上がった孫堅を彷彿させます。
さて、孫権と同じく、ボンボンとして育った氏康ですが、
そこには、三国志の群雄そこのけのライバルが立ちふさがります。
それが、扇谷上杉朝定や山内上杉憲政という室町時代からの守護大名です。
早雲の時代に関東に地盤を築いた新参者の小田原北条氏は、
彼等から目の敵にされていたのです。
1545年両上杉氏は、東駿河を北条氏に奪われた今川氏を
抱きこんで北条氏に侵攻します。
これを河東一乱といい、氏康は、一万の手勢で
八万人の上杉・今川連合軍と戦う事になります。
まるで、三国志の赤壁の戦いですが、氏康は、圧倒的に不利な状況下で
まずは、今川氏と和睦して奪った東駿河を返還して虎口を逃れます。
しかし、これでも山内・扇谷の上杉勢は収まらず、
再び、今川氏と結んで、さらにこれまでは氏康の味方だった、
古河公方の足利晴氏も味方に引き入れて再び、八万人という
大軍を率いて北条領に侵攻します。
激戦となった川越城は、氏康の義弟の北条綱成が巧みに守り、
上杉・足利・今川連合軍を防ぎます。
氏康は計略を駆使、上杉、足利軍に向けて、
「これまで奪った領地は全てお返しします」と書状を送ります。
それ以前に、今川氏に東駿河を返した氏康を「腰抜け」と侮っていた
両上杉と足利氏は、これで警戒を解き油断しました。
氏康は、これを機に、城内の綱成と内応して夜襲をかけます。
この川越夜襲は大成功し、扇谷上杉朝定は戦死!!
山内上杉憲政や古河公方、足利晴氏はそれぞれ領地に向かって
敗走してしまいました。
この戦いで、小田原北条氏は、関東における覇権を確立します。
さらに、氏康は敵対関係だった今川氏と武田氏と外交交渉を重ね
相甲駿三国同盟を締結して勢力を安定させるのです。
これも孫権が、赤壁の難しいかじ取りを切りぬけて、
蜀と結んだり、魏と結んだりしながら、
呉の繁栄を築いたのによく似ています。
戦争ばかりでなく、北条氏康は内政の名人で、信長の野望では
政治力が非常に高く設定されています。
戦乱に明け暮れた時代でも、徴税を請け負った管理職が、
中抜きをして農民を搾取しないように、裁判の制度を拡充したり、
戦争が続いた時には減税や借金帳消しなどの善政を敷きます。
この辺りも孫権が勢力を広げた、江東、江南の土地の経営に力を入れ
民心の安定を図ったのと似ています。
そして一番似ているのが、これだけ華々しい活躍をしていても
関東のド田舎の事(当時の日本の政治経済の中心は近畿)として
北条氏康の事績は知られていないという事でしょう。
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この記事を書いた人:kawauso
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自己紹介:
三度の飯の次位に歴史が大好き
10歳の頃に横山光輝「三国志」を読んで衝撃を受け
まずは中国歴史オタクになる。
以来、日本史、世界史、中東、欧州など
世界中の歴史に興味を持ち、
時代の幅も紀元前から20世紀までと広い。
最近は故郷沖縄の歴史に中毒中、、
好きな歴史人物:
西郷隆盛、勝海舟、劉邦、韓信、、etc
何か一言:
歴史は現在進行形、常に最新のジャンルです。