韓信(かんしん)は臨輜城を後にすると臨輜から数百キロ離れた場所にある即墨城へ入ります。
この城は春秋戦国時代後期の名将と言われる楽毅(がくき)の攻撃を耐え忍び、その後斉復興への拠点として活躍した場所です。この城へ入った韓信は漢王劉邦がどの場所に布陣しているのか探り当てるため調査を行います。
しかし韓信は中々漢王劉邦の居場所を突き止めることができずに苦戦しておりました。そんな中、臨輜の戦いの情報が入ってきます。臨輜城攻防戦は一進一退の攻防が続き、田横がよく配下を掌握して戦っていることを知り大いに感心します。
そして韓信は漢王劉邦の居場所を探ること数十日。ついに漢王劉邦の居場所を見つけます。彼がいた場所は臨輜の近くにある城で千乗(せんじょう)と言われている土地に婦人しておりました。この地は田横の兄貴分であった田栄(でんえい)、田儋(でんたん)が住んでいた土地であり、彼らが反乱を起こし拠点でもありました。
この地にいることを知った韓信は、すぐに即墨の城を出て千乗へ向かいます。
前回記事:【韓信独立戦記】韓信がもし独立したら歴史はこうなったかも!?【前半】
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この記事の目次
電撃的な急襲作戦
韓信は歩兵を連れずに騎兵のみの編成で即墨城を出陣。全速力で突っ走り、途中で幾度も休憩を挟みながら千乗へ向けてひた走ります。この様子を観察して見ていた者が降りました。
彼らは騎馬隊の移動を見届けた後、すぐに馬に乗ってかけ去っていきます。韓信は千乗の付近に到着すると自軍を数時間休ませ、千乗へ攻撃を仕掛けます。この奇襲を知っていたのか漢王の軍勢は防備を固めていなかったかこともあり、大混乱を引き起こします。
漢軍の兵士達を片っ端から討ち取っていく韓信軍ですが、劉邦の姿は見つけることができずこの陣を破壊しつくした後、撤退していくことになります。
劉邦はどこに
なぜ劉邦は千乗にいなかったのでしょうか。それは張良が放っていた調査集団のおかげです。張良は韓信が臨輜にいないことを知ると彼がどこにいるのか調査部隊を大動員して探し出します。
しかし中々彼の姿を見つけることができずにいましたが、風のような速さで千乗へ向かってくる騎馬集団が居るとの報告が入ります。彼はこの中に韓信がいると確信し、本隊を移動させることを劉邦に進言。
劉邦は張良の進言を聞いてすぐに本隊を率いて千乗を後にします。こうして韓信の攻撃を間一髪で避けた劉邦軍ですが、韓信に勝つ方法は見つかりませんでした。
名軍師同士の相談
陳平は張良に会うと「このまま韓信討伐に手こずっていては、各地の反陛下の人々が集まって反乱を起こすかもしれないな。」と相談を持ちかけます。
張良も「そうだな。しかし打つ手はあるのか。」と聞き返します。すると陳平は「和平を結んで、和平の調印を結ぶ際に韓信を捕らえて殺害するというのはどうであろう。」と策を披露します。
張良は「無理だろう。今の韓信が和平に応じることなどないはずだ。」と反論。
陳平は「ではどうする。」と再び張良に聞き返します。
すると張良は「そうだな。」と少し部屋の中を歩き回った後「こういうのはどうだ。」と陳平に考えた策を披露します。
張良が考えた策は劉邦を囮に使う作戦です。彼は「斉は今首都・臨輜が包囲されているが、陥落する様子が一向に見られない。また韓信軍も劉邦様を討ち取ることでこの戦を勝利へ導こうと確信した、先日の奇襲攻撃が外れてしまい打つ手に困っているであろう。
こうした膠着している状態を打破するため、まず劉邦様が諸将を率いて即墨城攻撃にむかってもらうしかない。即墨城には大した兵力は残していないと調査した者から報告が入った。それならばこちらから大軍を率いて即墨へ攻撃を仕掛ければ、韓信を追い詰めることができるのではないか。」陳平はこの作戦を聞くと「今はこれが一番最適かもしれないな」と張良の作戦を認めます。
そして二人はこの作戦を劉邦に伝えに行きます。
自らが軍勢を率いて出陣することを承諾
劉邦は陳平(ちんぺい)と張良がやってくると「韓信に勝つ方法が見つかったか。」と訪ねます。すると二人は「勝てるかどうかはわかりませんが、やってみる価値はあります。」と先ほど二人で相談した内容を劉邦へ進言します。
そしてふたりの進言を聴き終わった劉邦は「よし。それの作戦をやってみるか。そしてわしもそろそろ年になってきたから年内を持ってこの戦線から撤退する。そのためこの作戦失敗するわけには行かんな」と出陣することを承諾するとともに、作戦に対する意気込みを二人に伝えます。こうして大規模な即墨包囲作戦が実行に移されることになります。
劉邦を討つ絶好の機会がやってくる
韓信は劉邦を討つために仕掛けた奇襲作戦が成功しなかったことを悔やみますが、すぐに次の作戦をあれこれと考えておりましたが、中々妙案が浮かびませんでした。そんな中劉邦自ら軍勢を率いて即墨を攻撃してくると聞き、韓信は今こそ劉邦を討つ最大のチャンスだと考え、騎馬隊を率いて城外へ出陣。劉邦軍が即墨を包囲するまで城外近くの林の中に軍勢を入れて身を潜めます。
劉邦軍vs韓信軍
劉邦は城外から10キロほどの地点に本陣を構え、諸将に即墨城を包囲させます。この地に本陣を据えると共に韓信軍が本陣を狙って攻撃を仕掛けてくる可能性があることを考慮して本陣の周りに丸太を植えて防御を固めた後、本陣から東西南北400メートルほど離れた場所に兵を伏せさせます。
こうしていつ本陣に韓信軍が攻撃してきてもいいように備えさせます。また韓信は劉邦が本陣を据えている場所へ奇襲攻撃を仕掛けるため、あらかじめ本陣の場所へ進軍をしており劉邦の本陣から3キロほど離れた場所で小休止をさせます。
そしてこの地で日暮れを待ち、夜になると同時に攻撃を仕掛ける予定でした。こうして劉邦軍vs韓信軍の決戦が行われようとしておりました。
奇襲攻撃を仕掛けるも・・・
韓信は夜を迎えると劉邦軍の陣地を調査させます。すると劉邦軍は少しの篝火と少数の兵隊が陣の周りを巡回させているだけでした。彼は劉邦の側に張良と陳平という稀代の軍師が二人も揃っているにも関わらず、防備が薄すぎると不審に思います。
しかしこのまま手をこまねいていても劉邦軍を蹴散らすチャンスが見つけることが出来ないため、攻撃を仕掛ける決意を固めます。彼は劉邦軍の本陣へ攻撃を仕掛けるにあたって率いている将軍達に
「もし劉邦軍が迎撃に出てきたら我の直属の部隊が大声を出しながら旗を振るゆえ、速やかに臨輜へ退却せよ。」と伝えた後、攻撃を仕掛けます。劉邦軍へ攻撃を仕掛けると案の定奇襲攻撃にも関わらず、劉邦軍は冷静に武器をとって迎撃に出てきました。
韓信は攻撃を行いつつも部下達に大声を出させると共に韓の旗を振らせて、退却を行います。こうして韓信の奇襲攻撃は失敗に終わってしまいますが、劉邦も韓信を討ち取ることができずにチャンスを逃してしまいます。
長安へ撤退
劉邦は自らの老いを自覚しており、即墨攻撃を最後に首都・長安(ちょうあん)へ帰還しようと考えておりました。そして自ら囮になって即墨攻撃軍を率いて韓信をおびき寄せることに成功するも、彼を討ち取ることができませんでした。彼は最後の戦いであった即墨攻撃戦を持って戦場から離脱して長安へ帰還することになります。
斉の包囲は続くも滅ぼすことができない
韓信はその後も漢軍と戦い続け、幾度も破ることに成功しますが決定的な損害を与えることができずに時間ばかりがただ過ぎていくことになります。劉邦軍も韓信軍に幾度も撃破されているため積極的に攻撃を仕掛けようとせず、斉の本拠地である臨輜の包囲のみを行います。
こうして3年もの間攻防戦が続きますが、両者決着をつけることができませんでした。
稀代の英雄劉邦死す
劉邦は首都である長安へ帰還すると戦の疲れが出たのか病に倒れてしまいます。彼はその後ほどなく亡くなってしまいます。西楚覇王と称された項羽と激闘を繰り広げ、ついに天下の大半を手に入れることに成功した英雄・劉邦。
彼は韓信を倒して天下統一をすることができませんでしたが、ヤクザ者から天下の大半を手中に収めることができたのはまさに英雄であった証ではないでしょうか。韓信は彼が亡くなったことを聞くと感極まって臨輜の城壁に登って、長安の方角へ哭礼(亡くなった時にその人を弔うために大声で泣くこと)を行います。
匈奴の英雄・冒頓単于が攻め込んでくる
匈奴では楚漢戦争が終わった頃に一人の英雄が誕生します。この英雄の名を冒頓(ぼくとつ)といい、彼は長城の外にいる異民族を全て平らげてかつてない匈奴の帝国を完成。
そして漢の北方にある代の土地へ攻撃を仕掛けてきます。代にいた韓王信は匈奴の大軍勢を見て恐れ慄き、降伏してしまいます。冒頓単于は代を奪った後、漢の北方の城へ攻撃を仕掛けて次々に陥落させていきます。
斉と和平を結ぶ
漢の二代目皇帝である劉盈(りゅうえい)は、斉の戦線から諸将を呼び匈奴に対する善後策を練るため会議を開きます。斉の戦線から呼ばれた諸将は匈奴に対して色々な意見が出ますが、最終的に残った案は「匈奴を迎撃して長城以北に追い返す」案と「精強である匈奴軍と敵対している間に韓信軍に背後を突かれては、どうしようもできなくなるため匈奴へ贈り物を贈って仲良くなるしかない」の二つの案に絞られます。
この二つの案に絞られたとき張良が諸将へ向かって「異民族と仲良くするくらいなら韓信と和睦して、共に匈奴軍撃退に協力してもらった方が良い」と劉盈に提案します。
また陳平も張良の案に賛成を示したため、劉盈は迷ってしまいます。そんな時、劉盈の後見役として漢の実権を握っていた呂雉(りょきじ)が「わらわは匈奴なんかと仲良うするよりは、気に食わないが張良の案を採用して韓信と共に匈奴討伐を行った方が良い」と張良の案に賛成の意見を挙げます。
諸将は呂雉が皇帝に代わって漢の実権を握っていることを知っているため、彼女の意見に逆らうことをせず皆この意見に従うことになります。
漢と和睦する
韓信は漢から使者がやってきた事を知ると臨輜(りんし)城内に招きます。漢の使者は以前韓信に敗北したことのある曹参です。彼は韓信に会うと前置きをせず単刀直入に「漢と同盟して匈奴の軍勢を蹴散らして欲しい」と頭を下げてお願いします。
韓信は曹参が頭を下げてお願いしている姿を見てしばし考え込んだ後、「わかった。漢と和睦して匈奴を蹴散らすとしましょう。」と彼の要請を承諾。
こうして漢と斉は和睦することになり、協力して匈奴軍を蹴散らすこととなります。
なぜ漢と和睦したのか
韓信は漢との和睦が成立すると田横を呼び「宰相よ。斉の地は君任せた。よろしく頼むよ」と彼に斉の地に残して留守番させる意向を伝えます。田横は「王よ。漢と和睦などしないで、漢へ攻撃を仕掛けたほうが良かったのではないのですか」と当然の疑問を投げかけます。すると韓信は「漢の領土が異民族に乗っ取られるのは、同じ中華の人間として許すわけには行かないであろう。
もし漢が匈奴に征服されることがあったら中華の人々は全員奴隷となってしまうではないか。ここは中華の中で敵対している場合ではなく、敵同士であっても共に力を合わせて匈奴を打ち払うべきである。」と自身の持論を展開。彼は田横が納得のいかない顔をしているのを見て「宰相よ。漢軍には我に勝てる将軍は一人もいないのだ。
匈奴と戦うほうがよっぽど怖いではないか。ならば漢を助けて強い匈奴軍を追い払った方が良くないか。」と言葉を繋ぎます。
田横は渋々韓信の言葉を受け入れ「王がそこまで言うのであれば私は何も言いません。王の武運を祈っております。」とあきらめ顔で韓信を送り出すことにします。こうして斉は韓信自ら率いて出陣することになります。
三国志ライター黒田廉の独り言
韓信の独立編はここで終了となります。韓信がもし独立していれば漢の国内は外的に対して固い結束でもって戦いを行っていました。そのため史実では英布や彭越が劉邦に処断されることになるのですが、韓信が独立したことにより彼らが処断されなくなり、呂雉も匈奴と韓信両方に目を配らなくてはならないため、史実のような悪女にならないのではないかと思います。
さて三国志が始まるかどうかなのですが、多分韓信が独立した場合発生しないのではないかと思われます。史実では「文景の治」と呼ばれる安定した時代がやってきますが、韓信が独立したことで呂雉があくどい政治を行っていないことからしっかりとした政治基盤のまま漢の中期そして武帝の時代に流れるのではないかと思っております。
また武帝は匈奴を打ち払った皇帝として歴史に名をとどめますが、韓信が匈奴を漢軍と協力して長城以北へ追い払うことができたのであれば、匈奴討伐戦を実行する必要がなく、匈奴討伐戦における重税を民衆へ課すことがなくなるため、平和な時代がおとずれ不満があまりないまま時代が流れていくのではないかと考えられます。
すると後漢王朝時代はどのようになるのか予想しかできませんが、歴史の政権が数千年も長く持ちこたえることはできないので、乱れるとは思いますが果たして三国志になったかどうかは疑問です。世の中の乱れが遅くなれば劉備や曹操の出現する期間も遅くなることになり、三国に別れて戦うことなどはなかったように思われます。
「今回の韓信のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~」
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