三国志を代表する暴君、董卓(とうたく)、一見すると実力を過信して呂布(りょふ)に斬られたうっかりな人に見えますが、本当は自分が恨まれている事はよく把握し、猜疑心と用心深さがあったようです。そんな董卓が、万が一に備えて築城した要塞、それが郿(び)城でした。
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長安から西に二百五十里に存在した郿城
伝承によれば、郿城の城壁の高さと厚さは、長安と同じ七丈ありました。現在の単位なら、21メートルという事になります。この高くて厚い城壁の内側に董卓は、一族の為の食料三十年分を積み込み天下から集めた金銀・珍宝がうなる程にあったそうです。
董卓「おがっ!オラが天下を獲れたら長安に君臨すればいいし、もしダメでも、ここに籠ってれば、寿命は全うできるズラ!」
董卓は、ここを万歳塢(ばんざいう:万年守れる砦)と称してオガオガ笑っていたようです。
でも、確か同じような事を北で公孫瓚もしていたような・・・自分勝手な暴君は行動パターンも似てくるようです。
董卓、宮廷で呂布に殺され、郿城は無意味に・・
万が一の為に富と時間を傾けて造り上げた郿城ですが、皮肉な事に、董卓がここに籠るチャンスはありませんでした。
味方と思っていた部下の王允(おういん)と呂布が内通し、献帝(けんてい)の病気回復の祝いで宮廷にノコノコやってきた董卓を刺殺してしまったからです。
政権を握った王允と呂布は、董卓の残党が籠るのを恐れ郿城を破壊してしまいます。しかし、土台までは破壊したわけではないようで、郿城自体は、北魏(386~534年)の時代まで砦として使用されたようです。
郿城は21世紀に再発見される。
董卓の野望が詰まった郿城・万歳塢は北魏の時代以後、廃墟になり消滅してしまいますが、21世紀に入り高速道路拡張工事で、かつて郿城が存在した尭上村から柳巷村周辺の土を収容し、掘り進めていく過程で再発見されました。
周辺の土地からは、大規模な瓦を焼く為の施設跡や陶器の欠片、青銅器の破片、おびただしい数の骨製の髪飾りや矢じり等が出土しました。発掘品には、前後漢時代の特徴が発見され、歴史資料から、位置を割り出した結果、この遺跡が郿城である事が確認されたのです。
面積は小さいが防御砦として優れていた郿城
郿城の面積は、25600平方メートル以上で、従来の県の大きさに比較すると、240分の1、1400分の1にしかなりません。それは、郿城が董卓の身内と防衛する兵力だけで構成されていた一つの証拠になるでしょう。
ただ、その防衛設備は本格的で、敵台という見張り台や角楼を備え、馬面という東西南北の角に突き出した四角形の台座もあります。馬面は城壁をよじのぼる敵を突き落とす為の工夫であるようです。小さいのは、最低限の人数で長期間籠る為であり実際に籠城したら、陥落させるのには、長い時間がかかったかも知れません。
皇帝気取りの董卓は、郿城から馳道を走らせていた
董卓は、郿城と長安を頻繁に往来していた関係から、塢郿から長安まで董卓専用の道路、馳道(ちどう)を開通させていました。それは郿城嶺(びじょうれい)と呼ばれ、土を盛り固めた道路で高さ3・4メートル、底の広さは21メートル、頂上の広さは14メートルあります。一般に馳道は天子専用の道路ですから、ここに董卓の驕りが見えます。
董卓は最後まで献帝を排除しませんでしたが、実質上は天子気取りで、皇帝しか使えない仕様の馬車を、乗りまわしていたりしたので、この馳道も馳道と呼ばなかったとしても、天子のつもりで使用していたのではないかと推測します。
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三国志ライターkawausoの独り言
このように董卓は用心深かったのですが、生きていく上では、自分以外の全ての人間を信用しないというわけにはいきません。董卓も最後は、妻が止めるのも聞かず、のこのこ宮中に参内しボディーガードとして信頼していた呂布に討たれました。
結局、暴政を敷いて自分以外の全てを従えているように見えても、人心を得ていないなら、堅牢な要塞を造っても決して安全ではないと董卓の万歳塢は教えているのかも知れません。
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