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大胆仮説!孔明が口ずさんだ梁父吟は芝居のセリフだった!?

2016年10月2日


 

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孔明

 

諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)が隆中でニートしている頃に、

よく口ずさんでいたと言われる梁父吟(りょう・ほ・ぎん)。

斉の宰相の晏嬰(あんえい)が2個の桃を使って3人の勇士を殺すという

アレな内容ですが、孔明は、この歌を書物ではなく演劇で知ったのではないか?

という、大胆な仮説が浮かび上がってきました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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前漢時代からすでに芝居は上演されていた・・

 

現在の定説では、演劇としての芝居の発生は、唐代に寺などの

人が集まる広場を利用して起きた、言われていますが、

最近の研究では、それよりも時代が大きく遡るのではないか?

とも言われています。

 

韓信 股くぐり

 

その根拠は意外にも司馬遷の史記であり、非常に印象的な、

韓信(かんしん)の股くぐりや、暗殺者荊軻(けいか)の始皇帝暗殺が

ドラマチックに描かれているのは司馬遷の創作ではなく、

当時、すでに存在していた歴史劇のセリフを、彼がそのまま、

史記に取り込んだのではないか?と言われているのです。

 

確かに演劇のセリフなら観客の耳目を引く為にセリフが洗練される筈で

司馬遷は、それを拝借して、さも見てきたかのような臨場感ある場面を

造り出すのに成功したと言うわけです。

 

孔明が口ずさんだ梁父吟とは?

孔明

 

孔明がニート時代に口ずさんだ梁父吟とは以下のような詩です。

 

歩出齊城門 遥望蕩陰里 里中有三墳
累累正相似 問是誰家塚 田彊古冶氏
力能排南山 文能絶地紀 一朝被讒言
二桃殺三士 誰能爲此謀 國相齊晏子

翻訳:聖の城門を出ると、遥か彼方に蕩陰里(とういんり)が見える。

そこには、三つの墓があり、土が盛り上がり似たような形だ。

これは誰の墓ですか?と尋ねると田開彊(でんかいきょう)と

古冶子(こやし)と公孫接(こうそんせつ)の墓だと答える。

三人の武力は南山を引き抜くほどに強く、その文才は

大地を保つ綱を断ちきる程だった、しかし、ある時、讒言を受けて、

2個の桃を3人で争いとうとう3人とも死んでしまった。

誰が、そんな凄い策略を繰り出したのですか?

YES、斉の宰相、晏嬰(あんえい)デスヨ。

少々、意訳が入っていますが、梁父吟の歌は、

牧歌的な感じとは似ても似つかない暗い内容なのです。

 

梁父吟とは、二桃殺三士の名前でメジャーだった。

 

梁父吟の元ネタは、二桃殺三士という斉の宰相、晏嬰の話です。

紀元前6世紀、斉には、田開彊と古冶子と公孫接という、

文武に優れて乱暴な3人の勇士がいました。

 

晏嬰は、この3人を生かしておくと災いを成すと考え、

主君景公(けいこう)に許可をもらい、3人を殺す策を考えます。

ある時、晏嬰は、2個の桃を3人に贈り、

「自分こそが、一番功績が高いという人間は桃を食べよ」と言います。

 

田開彊と公孫接は、よく考えもせず、

「俺こそナンバー1だ」と主張して桃を一個ずつ食べます。

すると、抜け駆けをくらった古冶子が

「なんと恥知らずな、私を差し置いて自分達が一番だと言うのか」

と言ったので、3人でよくよく調べてみると古冶子の手柄が一番でした。

2人は、自分の思い上がりを恥じて自殺(なんで?)

 

1人だけ残された古冶子も

「私の余計なひと言が二人を殺した」と自殺(だからなんで?)します。

 

こうして、晏嬰は労せずして三人の勇士を葬ったのです・・

※すいません、私にはこの三人、そんなに賢くは見えないんですけど・・

 

二桃三殺士の話は墳墓の壁画にも描かれているが・・

 

さて、この二桃三殺士の話ですが、話が単純で分かりやすく、

インパクトが強烈である事から、多くの人に知られ、豪族の墳墓にも、

その様子が描かれています。

 

しかし、不思議なのは、時代がバラバラな筈のそれらの墳墓に描かれた

二桃殺三士の絵の構図が驚く程似ているのです。

 

詳しくは、毎度おなじみ、はじさん特製イラストで確認してほしいのですが

 

人数の増減や、人物の服装がやや変わる事はあっても基本構図は、

真ん中に桃が入った器があり、それに二人の人物、田開彊と公孫接が

手を伸ばし、その背後の古冶子がそれを見て怒って剣を抜いている様子です。

 

もし、これが書物や口伝えの伝承なら読んだ人のイメージで、

構図は全部変わる筈です、しかし、それが一緒であるという事は、

石刻画を描いた職人は、演劇として上映された二桃殺三士を見ていて、

それをそのまま石刻画に写したのではないかと推測できるのです。

 

孔明は、二桃殺三士の故事を演劇として見ていて主題歌の梁父吟を覚えた!

諸葛瑾

 

そうして考えると孔明は、少年時代、このような二桃殺三士の演劇を

度々見ていて、その演劇の主題歌だった梁父吟を知らず、知らずに

覚えてしまったのではないでしょうか?

 

ちょうど私達がお気に入りのドラマを何度も見る間に、

主題歌を覚えてしまうように、孔明は演劇を何度か見る間に、

梁父吟をすっかり覚えてしまい、ほとんど癖のように歌うようになった。

だから、不気味な歌詞だけど、あまり気にしなかった・・

そういう事になるのではないかと推測します。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

三国志の時代、貴族の屋敷ではすでに着ぐるみや仮装などをして、

軽演劇らしきものが行われていた事は、

こちらの過去記事からも明らかになっています。

 

くまモンだけじゃない!三国志の時代にもあった着ぐるみ↓

 

 

孔明はニートとは言え、劉表にも繋がる荊州の名門でしたから、

少なくとも諸葛玄が生きていた時代は、このような貴族の宴会に招かれ

演劇を見る機会があり、そこで二桃殺三士の演劇を見て主題歌の梁父吟を覚えた。

もしかしたら、そういう事かも知れません。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-諸葛亮
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