絶滅ヤンキーの兄ちゃんの歌という嘉門達夫の曲ではありませんが、ヤンキーはコンビニの前でウンコ座りとか繁華街でダベるとかそういうイメージが浮かんできますよね。
しかし、ヤンキーの皆さんが繁華街でダベるのは、最近の事ではなくすでに漢の時代には繁華街でヤンキーはダベっていたのです。
この記事の目次
治安が悪い無法地帯 市場
前漢時代の長安には、すでに九を数える市場が設けられていました。地方都市でも、九まではいかなくても東西二つの市場はあります。
ただ現在と違い、市場は城壁に覆われ市門で外界と隔離されていました。この城壁を闤(カン)と呼び闤を乗り越えた者や塀に穴を空けた者には、杖七十を加えるという厳しい規定が唐律疏講という書物にあります。市場の中央には市楼(しろう)と呼ばれる五層の建物があり、そこに役人が詰めて商売上のトラブルや、犯罪の類を取り締まっていました。
店は列肆(れっし)と呼ばれ、整然と区画整理され、飲食店、金物屋、葬儀屋、酒屋、八百屋、肉屋、魚屋というように一区画ごとに分かれ、品物には値札が必ず掛けられるなど、細かい決まりがありました。
しかし、にも関わらず市場の治安は悪いものでした。それは、どうしてなのでしょうか?
後漢時代の班固の詩に登場する任侠の徒
その理由は、後漢時代の歴史家、班固(はんこ)の詩の中に登場します。少し長いですが引用しますと・・
九市場を開いて、貨別れ、隧(すい)別れ、人は顧みるを得ず 車は旋(まわ)るを得ず。城に闐(み)ち郭に溢れて、旁く百廛(ろ)に流る。赤塵は四に合いて煙雲は相連なる。是に於て既に庶にして且つ富み、娯楽すること疆(かぎり)無く、都人士女は五方に殊異にして游士は公侯に擬し、列肆(れつし)は姫姜よりも奢る。郷曲の豪挙、遊侠の雄、節は原嘗(げんしょう)を慕い、名は春陵に亜(つ)ぎ、交わりを重ね衆を合わせて、その中に騁(てい)騖(は)す。
これは長安の九市の繁栄を表したものですが、最後の三行は、市場にうようよしていたヤクザ、任侠の徒を描写しています。
郷曲の豪挙、つまり、豪族の支配下にある私有民で度胸がある人間や遊侠の雄、天下に名を知られた無頼者が、心意気は戦国時代の、趙の平原(へいげん)君や斉の孟嘗(もうしょう)君を慕い、名声は信陵(しんりょう)君や春申(しゅんしん)君に次いで市場で交友を重ね、我が物顔で振る舞っているという意味です。
このような反社会的な人々の下には、悪少年や軽薄少年と書かれたいわゆるヤンキーも任侠予備軍として下部組織に組み込まれていました。その辺りも、今と余り変わらないようです。これでは、市場が安全な場所になる事は期待できません。窃盗、殺人、強盗、詐欺、恐喝、様々な犯罪が市場では起きていました。
貴族官僚も頭を下げた、任侠の大ボス禹(+竹かんむり)章
市楼の役人は、このような任侠を取り締まり、市場を安全にする義務がありましたが一部の熱心な役人をのぞけば、多少のトラブルは見て見ぬふりをするのが、一般的な風潮でした。
そして、市場のトラブルメーカーである任侠達は、その底なしの度胸故に、ヒットマンとして王侯貴族に腕を買われ、俄かに出世する事さえありました。
長安の城西の柳市に縄張りを持っていた禹章(うしょう)も、そんな一人でした。通り名を「城西の禹子夏」と号して、長安に轟く悪名があった禹章は、ある時、宮中の大物の引きを受けて、京兆尹(けいちょういん:都知事)指揮下の門下督(もんかとく)の地位に就きました。
門下督は、どうやら京兆尹の指示で長安の犯罪を取り締まる地位のようですが任侠がそれをやるのではアベコベだと言えるでしょう。ある時、門下督、禹章が上司の京兆尹と共に、宮中に上ると貴族や官僚は、京兆尹はそっちのけで、争って禹章に挨拶したと言われます。
これは、禹章のバックの黒幕の権力の強さを物語ります。
栄華は続かず、王遵に捕えられ処刑される禹章一派
しかし、変転極まりない宮廷の権力争いで、禹章を寵愛していた黒幕は失脚。すぐに反動が起き、当時の京兆尹はクビになり、禹章も門下督の地位を解かれます。さらに、新しく京兆尹になった王遵(おうじゅん)は、長安の九市の任侠を一斉に摘発し、禹章も逃れる事が出来ず、逮捕され処刑されました。
一時的とはいえ、このように権力と裏で結びつく人間が市場に居たという事は、市楼に勤める程度の小役人では、積極的に、これを取り締まるなど自分のクビを絞めかねない部分があったかも知れません。
その意味では、市場は前科持ちの罪人が隠れるのに適した場所であり、それ故に、ますます治安が悪くなるという事もあったようです。
曹操、袁術や袁紹、劉備も、市場に足繁く出入りしていた
このように危険な市場ですが、同時に見世物や、歌舞音曲、博打、様々な食べ物、珍しい遠方の品物で溢れ返る魅惑の場所でもありました。
曹操(そうそう)や袁術(えんじゅつ)、袁紹(えんしょう)は、若い頃、なんちゃって任侠として無頼を好み、行いを修めなかったというような記述がありますが、彼等は長安の市に出没し、任侠とも交流を持ったのは、ほぼ確実だと思います。
また、劉備(りゅうび)が身を飾り、狗や馬、音楽を楽しんだ場所は、市場以外にはあり得ないので、結局、若き日の劉備は今のヤンキーが繁華街でダベるように故郷の市場に入り浸っていたのかも知れません。
そこで、劉備が、簡擁(かんよう)や孫乾(そんかん)、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)と出会ったとしたら、なんだか、桃園の誓いにも違った感じが生まれますね。
三国志ライターkawausoの独り言
張飛「おし、俺の肉屋の裏庭で、また飲もうぜ!」
だっせェww働いたら負けだぜ!」
張飛「あんだよ、悪いか!劉の字こそ学生だろちゃんと勉強してんのか?」
劉備「いいんだよ、俺は、真面目にしなくても学費も食費もおじさん持ちだから」
張飛「けっ、いい身分だよな、お前は、、俺なんか汗まみれで昼は働くってのによ」
劉備「お前らとは生まれが違うからな」
関羽「どーでもいいが髭が痒いんだけど・・
行くなら早く行こうぜ」
もしかしたら、桃園三兄弟も、市場の片隅で
こんな会話をしていたのかも知れません。
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