司馬懿(しばい)といえば魏の大将軍であり、
蜀の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)を最後まで苦しめた戦上手として知られています。
司馬懿がいなければ蜀はもっと領土を拡大し、魏を滅ぼせたかもしれません。
要するに曹操亡きあとの大黒柱が司馬懿です。
曹操に見いだされた才能
それはもはや将軍・軍師という枠では
収まりきらないほどの重責であり、また、活躍でした。
初めこの司馬懿の出仕を執拗に迫ったのが時の権力者である曹操です。
曹操はひとの才能を見抜く術にかけては天下一品です。
曹操には若き頃の司馬懿がダイヤの原石のように見えたことでしょう。
司馬懿は出仕を嫌がりますが、
ひとの才能を生かすことが生き甲斐のような曹操はそれを許しません。
しぶしぶ司馬懿は出仕することになります。
司馬懿の性格は保守的なのか
「自分が、自分が」とひとの前に出たがるような積極性を司馬懿は控えています。
どちらかというと裏方です。曹操の家督を継ぐことになる息子の曹丕の側近として仕えます。
曹丕が家督をめぐる争いで曹植に勝てたのは、
ひとえに慎重な司馬懿の献策によるものだといわれています。
なぜ司馬懿はじっと裏方に回っていたのでしょうか。
それは、司馬懿の才があまりに鋭敏過ぎるために曹操に警戒されていたためです。
よって司馬懿は一時も油断はできず、常に万全の配慮を怠らなかったのです。
野心めいたものは決して表に出さず、私心を抑えて神妙に仕えること。
このことで司馬懿は曹操の警戒をかいくぐり、さらに不動の心の強さを身につけることになります。
司馬懿がある種、保守的にあらねばならなかったのはそのためです。
実際の司馬懿はもっと行動的で、革新的です。
現に晩年にはクーデターも起こしています。
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司馬懿と徳川家康の相似
織田信長に睨まれながらも忠義と忍耐で勢力を伸ばした徳川家康と司馬懿は似ています。
なかなか自分を出さず、周囲に気を配りながらジリジリと力をつけ、
実績とともに信頼を得ていく姿もそっくりです。
このように慎重な人物が最終的に成功を収めるというのは今も昔もよくある話なのかもしれません。
総じて云えることは、大望を為すために我慢強いということです。
それが保守的に受け止められることもよくあります。
徳川家康もまた江戸を拓き、江戸幕府を開いて天下を統一した革新的な人物のひとりです。
チャンスがくるまでじっくり待ち、
動くべきときは果敢に迅速に動く姿勢は保守的とは少し違うのかもしれません。
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司馬懿に見いだされた才能
そんな司馬懿が重用した人物に鄧艾(とうがい)がいます。
どもり癖がかなりひどく、屯田する民から身を興した男です。
身分は低いですが、農耕について天才的な才覚を持っていたとされています。
そしてその才はやがて戦場の陣取りや機微を読み取るところにまで及ぶようになるのです。
文官としてだけではなく将軍としても活躍していきます。
司馬懿はその才を早々と見抜き、自分の近くに置くのです。
魏を守り抜くためには名や血統ではなく、
実力や才覚が必要だということを司馬懿は認識していたのではないでしょうか。
期待通りに成長した鄧艾は蜀の姜維の侵攻を巧みに食い止めます。
そしてこの鄧艾が蜀を攻め落とすことになるのです。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
曹操亡き後、魏の権力を握っていた曹家や夏侯家こそが保守的であり、
それこそ鄧艾のようなどこの馬の骨ともわからぬような男を起用することはなかったでしょう。
革新的な司馬懿がいたからこそ鄧艾の出世は成立したのだと思います。
ですが鄧艾は最後の最後で慎重さを欠き、失脚してしまいます。
その点、最後まで油断することのなかった司馬懿はひとまわりもふたまわりも鄧艾とは器が違いますね。
さすがは諸葛亮孔明のライバルです。
よく考えてみると、諸葛亮孔明との戦いで守りを貫いた姿勢が後世のひとに
「司馬懿=保守的」というイメージを与えることになったのかもしれません。
保守的な人間をあの曹操がそこまで警戒するはずもありませんしね。
司馬懿は革新的な英雄なのではないでしょうか。
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