魏・呉・蜀の三つの国に別れる前、中華は群雄が各地で割拠している状態が続いておりました。
群雄割拠の時代の始めの頃名門と言われる袁紹(えんしょう)と袁術(えんじゅつ)が、
各地の群雄を味方に引き入れ中華を二分した壮大な兄弟喧嘩を開始しますが、
袁紹と袁術はどうして仲が悪くなったのでしょうか。
一時期は反董卓連合軍に二人共参加しており、
協力して董卓討伐を行おうとしたにも関わらず・・・・・。
兄弟の仲が悪くなったのはもしかしたら後漢王室に連なる人物である劉虞(りゅうぐ)が、
原因かもしれません。
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後漢王朝が乱れているのは現皇帝のせいだ!
袁紹は反董卓連合軍が解散した後本拠地である渤海(ぼっかい)へ撤収します。
その後袁紹は後漢王朝が乱れている原因は、
現皇帝である劉協(りゅうきょう)が董卓(とうたく)に操られているためだと考えます。
そして彼は新しい後漢王朝の皇帝を立てることで乱れている中華を元通りにしようと計画。
そこで彼は新しい後漢王朝の皇帝にふさわしい人物を探し始めます。
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新皇帝にふさわしいのは人望の高い劉虞
袁紹は後漢王朝の王族達の中でどの人物が一番皇帝に相応しいのか色々と調べます。
その結果光武帝・劉秀(りゅうしゅう)の末裔で人望が高く
幽州(ゆうしゅう)の刺史として活躍している劉虞(りゅうぐ)に目をつけます。
彼は劉虞に皇帝になって欲しいと打診しながら、
全国の群雄達に劉虞を皇帝に立てて後漢王朝を立て直そうと呼びかけます。
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袁紹の呼びかけに激怒した袁術
袁紹の従兄弟である袁術は袁紹から「劉虞を皇帝に立てて後漢王朝を立て直そうではないか」と
相談の手紙をもらうと激怒します。
袁術は袁紹に対して「現在、劉協様が皇帝として長安にいらっしゃる。
いかに幼くて董卓に操られていようと現皇帝を廃立して勝手に皇帝を立てるのはよくないし、
名門と言われた袁家がやるべきことでもない」と述べます。
袁紹はこの手紙を袁術からもらうと彼に激怒し二度と相談することをしなくなります。
こうしてふたりの兄弟の中は一気に悪くなってしまいます。
他の群雄からも拒否られる
袁紹は袁術から手紙をもらって激怒しますが気にせず他の群雄達からの意見を待ちます。
すると袁紹陣営に属していた曹操からも「現皇帝を廃立して、新しい皇帝を立てるのはよくない」と
反対されたのを皮切りに続々と反対意見が袁紹の元へやってきます。
しかし袁紹は群雄から反対されても劉虞が皇帝になる気があるのであれば、
問題ないと思っておりました。
だが袁紹の最後の希望である劉虞からも「私は現皇帝を支えていきたいと考えており、
自ら皇帝の位に就く気はない」と拒否されてしまいます。
こうして袁紹は新しい皇帝を立てる計画は破綻してしまいます。
後に残ったのは従兄弟である袁術との対立や群雄からの反対意見だけしか残りませんでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
もし袁紹が劉虞を皇帝に就任させるような計画を立てるのではなく、
従兄弟である袁術と協力体制を築いていたらどうなっていたのでしょうか。
実際に協力体制を築いていないので、レンの勝手な予想になってしまうのですが、
群雄割拠の時代はすぐに収まってしまう可能性がありましたが、
後漢王朝を立て直すことはできなかったのではないのでしょうか。
その理由として袁術は袁紹を「妾の子供であいつは袁家の正統後継者じゃない」と
悪口をいろいろな人物へ言っており、
二人で協力して一時的に群雄割拠の時代を終わらせることが可能であったかもしれませんが、
何かの原因で仲違いしてしまい再び中華を二分した壮大な兄弟喧嘩が、
行われてしまう可能性が高いのではないのかなと思います。
参考文献 西東社 オールカラーで分かりやすい三国志 渡辺清一著など
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