三国志初心者の方には、分らない事が幾つかあるであろうと思います。
例えば、どうして諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)は圧倒的に
国力に開きがある魏に何度も戦いを挑んだのか?別に戦わないで益州に籠った方が
ずっと政権は延命されたのではないかという疑問です。
実は、それにもちゃんと理由がありますので、ここで解説しましょう。
この記事の目次
戦わないと国力が開くから・・だけでは正しくない
孔明の北伐について、よく解説されるのは、孔明は頻繁に遠征軍を送る事で、
魏の国力を削いで、その国力差が大きくならないようにしたという事です。
それは、間違いではないのですが、では、呉はどうなのでしょうか?
呉は蜀よりは国力がありますが、それでも魏には劣ります。
しかし、合肥(がっぴ)城を巡って地域紛争はしたものの、蜀のように
洛陽を落すような大規模な計画を立ててはいません。
それに国力が開くとはいえ、秦嶺山脈の険しい道を越えるのは蜀軍であり
魏は待ち受ける方なのです、より国力を消耗するのは蜀であって、
もし大敗しようものなら、その瞬間に魏に攻め込まれ蜀は終わるでしょう。
呉には無く蜀にあるモノが北伐を止められない理由
こうして見ると、北伐で魏の国力を削ぐ為というのは説得力が弱すぎます。
さらに呉には当てはまらないので、大きな要因とは言えないでしょう。
実は、北伐が止められない理由とは、蜀が後漢を受け継いだ後継政権だと
主張していた事と大きな関係があります。
敵対している魏も、自分達こそは後漢を継承した政権だと主張しています。
呉は、その辺をパーフェクトにスル―した独立王朝なので無関係なんですが
魏と蜀は論理上、並立できない関係でお互いを潰してしまわないと、
建国の正統性に揺らぎが生じてしまう不倶戴天(ふぐ・たいてん)の敵なのです。
蜀が先に滅んでしまったのも偶然では無かった
歴史上、呉と蜀では蜀が先に263年に滅んでいますが、それも偶然ではありません。
やはり、同じく後漢を継いだ正統王朝であると主張する蜀の方が
魏には気に障る存在だったのです。
呉が滅びるのは、蜀の17年後で、暴君、孫皓(そんこう)が呉に出てきて、
いつでも滅びる状態でも、晋は、かなり呑気に国内整備などをしています。
魏から見れば呉は、正統性で張り合う必要のない地方政権であり、
一刻も早く滅ぼすというモチベーションにはならなかったのです。
蜀は魏を滅ぼす事が建国の悲願だった
もうひとつ、劉備(りゅうび)が皇帝になって建国された蜀は、
その最初から曹丕(そうひ)によって盗まれた漢の天下の回復が聖なる目標でした。
つまり、呉の孫権のように、ノホホンと毎日を送る事は許されず、
一日も早く、一刻も早く、軍勢を起こして魏を討ち滅ぼして長安と洛陽を回復し
中国を本来の姿に戻すというのが絶対のイデオロギーなのです。
これが失われると、蜀はただの地方政権に成り下がり、
劉璋(りゅうしょう)が統治していた時のような、だらけた状態に戻ってしまうでしょう。
だからこそ、孔明は、ムキになったように北伐の軍を起こしていましたし、
その後継者の姜維(きょうい)も、緩んでいく蜀の士気を呼び戻すように、
かなり無茶な北伐を繰り返したと言えるのです。
三国志ライターkawausoの独り言
このように、孔明が北伐を繰り返した大きな理由は、魏と蜀が、
双方とも後漢の後継者だと主張していて、どっちかを滅ぼす以外に、
なんとかする方法が無かったという所にあります。
非常にイデオロギー色が強い話ではありますが、仮にその看板を降ろしたら、
蜀の内部の求心力が消滅し、魏か呉に降伏して身の安全を図ろうという人々が
大勢出てきてしまい、もっと早く蜀は滅んだのではないか?と思います。
あたかも、無能な劉璋に愛想を尽かした、張松(ちょうしょう)や法正(ほうせい)が
劉備を引きこんで国を売り渡したように、劉禅(りゅうぜん)の無能さに不安を感じた
蜀の臣が、出てきて蜀漢を売り飛ばした可能性も捨てきれません。
そう考えると、北伐は止めるに止められなかったのではないでしょうか?
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