ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・邪馬台国ミステリーツアー」のコーナーです。
三国志といえば、ちょうど日本では「卑弥呼」が登場した時代です。
学校でも習いますね。卑弥呼は「親魏倭王」の称号を得るのです。
ちなみに「漢委奴国王」の金印が福岡県の志賀島で発見されていますが、
あれば別の話です。というか時代が違いますね。二アミスではありますが。
漢委奴国王は西暦57年、後漢皇帝・光武帝の時代のお話です。
親魏倭王は西暦238年(239年という説が有力になってきていますが)、
魏の皇帝・明帝(曹叡)の時代のお話です。
今回は、後者の西暦238年、239年について触れていきましょう。
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卑弥呼の使者
邪馬台国がどこにあったのかは未だ謎になっています。
いずれゆっくりとお話したいと思いますので、今回は外交に注目してお伝えしていきましょう。
女王・卑弥呼の使者に選ばれたのは、難升米(なしめ)というひとです。凄い名前ですね。
お米の名前ではありません。ひとの名前です。
このひとが女王の代わり、つまり邪馬台国代表です。
もうひとり都市牛利という名前もあります。副使だったそうです。
この二人が、朝鮮半島の帯方郡を通じて外交交渉を行います。
帯方郡はかつて公孫氏が治めていた領地です。
西暦210年に公孫康(こうそんこう)が設立したといわれています。
西暦238年に司馬懿の征東軍によって公孫氏は滅ぼされ、帯方郡は魏の領土となっています。
邪馬台国の使者が来たのがちょうどこのタイミングだというのです。
邪馬台国からの献上品
完全に朝貢のための使者でした。
中華の皇帝の支配が及ばない地域では、その地域の代表者が皇帝の正統性を認め、
貢ぎ物を捧げ、その土地の支配権を容認してもらうという冊封朝貢外交が盛んに行われています。
邪馬台国もその目的のために帯方郡を訪れたのです。
難升米と都市牛利は、朝貢のために献上品を持参してきています。
それが、生口男女10人と班布2匹2丈でした。
生口は奴隷のことです。当時は人間も商品として売り買いされていた時代です。
あの曹操も部下に生口を報酬として与えたという記録が残っています。
班布とは織物のことでしょう。その長さは約20mという計算になります。
意外に貧弱な献上品であることに驚きます。
魏国からの下賜品
これに対して魏は、卑弥呼を親魏倭王に封じます。
さらに金八両、五尺刀を二口、銅鏡をなんと百枚、
真珠五十斤、鉛丹五十斤などの下賜品が邪馬台国に与えられました。
邪馬台国からの献上品に比べるとずいぶん豪勢ですね。
普通に考えると逆のような気がします。
しかも親魏王の称号は外夷に与えるものとしては最高位といわれています。
この称号を得たのは他に一国のみです。
アフガニスタンのクシャン朝、ヴァースデーヴァ王です。
親魏大月氏国王となっています。かなり巨大な文明国家でした。
それと比べると邪馬台国は弱小勢力です。
それがなぜこうも厚遇されたのでしょうか。
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鬼道をもって国を治める卑弥呼
実はこのとき魏の明帝は重い病に臥せっていました。
明帝が死去するのは西暦239年の1月のことです。
よって多くの混乱の時期でもあり、「正史」の明帝本紀にこの邪馬台国からの使者の記録がありません。
これだけの扱いをしながら記録は「東夷伝」にしか記載されていないのです。
では、なぜそんな混乱のなかにありながら邪馬台国の使者は丁重に扱われたのでしょうか。
それは卑弥呼が鬼道の使い手だったからだといわれています。
卑弥呼の呪術によって明帝の病を治してほしく厚遇したというわけです。
もはやそれ以外に明帝の病を治す術はありませんでした。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
ある意味タイミングが良かったといえる卑弥呼の朝貢作戦。見事に成功します。
真珠や鉛丹は不老不死の研究に使用されていた材料で、
おそらくはこれで明帝を治す薬を作ってほしいということだったのでしょう。
しかし邪馬台国の使者が帰国したのは西暦240年のこと。すでに明帝は死去していました。
卑弥呼ってどれほどの人物だったのでしょうかね。気になります。
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