河北の覇者として君臨していた袁紹(えんしょう)。
そして呂布(りょふ)・袁術(えんじゅつ)・劉備(りゅうび)と名だたるライバル達を蹴散らして、
河南を統治することに成功した曹操。
その後両者は天下の覇者を決することになる大事な戦いである官渡の戦いを勃発させます。
戦術面で袁紹軍を疲弊させ、袁紹軍から寝返ってきた許攸(きょゆう)から兵糧集積所を聞き出し
袁紹軍の兵糧集積所を焼き討ちしたことで官渡の戦いは曹操軍の勝利となります。
しかし許攸が寝返ってきた原因を突き詰めていくと袁紹の配下である名士達に原因がありました。
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この記事の目次
袁紹が敗北したのは名士が原因その1:河北と河南の名士がいた事
袁紹は後漢王朝の名家出身の人物です。
反董卓連合軍解散後河北で勢力を伸ばしていき、ついに河北全域を統一することに成功。
彼が河北を統一する直後から多くの人材が名家出身である袁紹の元に集まってきており、
袁紹の元に集まってきた人材の多くは名士と言われる地方の実力者達でした。
配下となった名士達の意見を多く取り入れて行く事になるのですが、
彼の態度に大きな問題がありました。
袁紹の配下の名士の多くは河北と河南の人材であり、
河北統一戦では河北・河南の名士達の意見を全て取り入れる事が可能でした。
しかし河北が統一された後中華を一つにまとめるためには南下するしかありません。
袁紹軍が南下するときに立ちはだかる最大の群雄は河南を制圧していた曹操でした。
そのため河北・河南の名士達の意見が真っ二つに割ることになるのです。
袁紹が敗北したのは名士が原因その2:名士の意見が二つに割れた事が原因
袁紹の配下となっている名士達が一致団結して曹操討伐の作戦を出しているのであれば、
彼の今まで通りの方針で政治・軍事を行っていて問題はありませんでした。
しかし河北・河南の名士達の意見は真っ二つに割れてしまいます。
河北の名士達は南下して曹操軍と対決することに消極的であり、
国力をもっと増強してから戦うべしと唱えておりました。
だが河南の名士達は曹操を倒して中華統一へ向かうためには南下するべしと
曹操と対決することに積極的でした。
袁紹は名士の意見を今まで全て取り入れていたので、
両者の名士達の意見が二つに割れた時にどうすればいいのか迷ってしまうことになります。
その結果、河南出身の積極策を提案していた名士である
許攸(きょゆう)は自らの献策を取り入れない袁紹の姿にイラついて曹操軍に寝返ってしまうのです。
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袁紹が敗北したのは名士が原因その3:自らの判断をしなかったこと
袁紹は河北・河南の名士達の意見が真っ二つに割れてしまった事が原因で、
身動き取れない状況になってしまいます。
その原因は袁紹が名士達の意見を全て聞いて、
状況に応じた自らの判断をしなかったことに原因があります。
名士達の意見が半分に割れてしまっては今までの方針通り、
配下の名士達の意見を全て聞くことは難しく身動きできない状況に陥ってしまいます。
そのため軍事・政治が円滑に進まなくなってしまい、
官渡の戦いでは全ての行動が後手後手に回ってしまいます。
その結果君主権力を確立していた曹操軍の迅速な対応に間に合うことができず、
袁紹は鳥巣(うそう)の兵糧集積所を救援することができずに敗北してしまうのです。
上記三つの理由により名士達が袁紹が曹操に敗北してしまった原因であると考えるのですが、
皆様はどのように思いますか。
三国志ライター黒田レンの独り言
袁紹は名士達をうまく使うことができないために敗北してしまいます。
しかし袁紹と正反対のことを行っていた群雄である呂布や公孫瓚(こうそんさん)達も
滅亡してしまいます。
名士を尊重すれば、迅速な対応ができずに軍事力は低下していきます。
また名士に頼らないで君主権力強化を行い続けて軍事力強化に特化することは、
支配地域の安定をもたらすことができません。
そのため三国志の時代に突入すると魏・呉・蜀はそれぞれどのように名士達と向かいつつ、
軍事力を強化していくことができるのか。
この二つの命題に苦労することになるのです。
参考文献 中公新書 三国志 渡邉義浩著など
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