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【素朴な疑問】三国志に海上での戦いってあったの?

2017年7月17日


 

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※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

三国志で海戦と言えば、おそらく0、2秒位で赤壁という言葉が出るでしょう。

ややマニアックな人は、孫権(そんけん)黄祖(こうそ)を滅ぼした

江夏の戦いを思い浮かべるかも知れません。

しかし、どっちもブー!です、それは長江での戦いで水上戦、海ではないです。

では、三国志に海上での戦いなどあったのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも三国志に海上での艦隊戦はあったのか?

 

結論から申し上げますと、海上で艦隊同士がぶつかる

赤壁の戦いのような戦闘は三国志からは確認が出来ません。

その大きな理由は、中国というのが基本内陸国であり海を超えて、

他国とドンパチする必要が無かったからという単純な話です。

 

その中で長江が中国を南北に分けて流れる大河で、

その周辺の領地を巡って、勢力が争い水上戦闘は何度か起きています。

 

ただし、艦隊戦ではありませんが、海から来た敵を陸で待ち受けて

撃退したケースは、三国志にも幾つか存在します。

 

優れた航海技術を持っていた遼東公孫氏

 

遼東(りょうとう)公孫氏とは、白馬義従の公孫サンとは無関係で

遼東半島を支配下に置いた公孫度(こうそんど)から、その孫の

公孫淵(こうそんえん)までの一族の事です。

 

遼東は中原から随分遠い事から、次第に中央の争乱から距離を置いて

独立国の体裁を取るようになり、五十年程繁栄しました。

 

この遼東の公孫氏には、海を越えて邪馬台国の女卑弥呼(ひみこ)が、

船を出して使者を送っていますし、公孫氏自体も沓津(ようしん)を拠点にして

交易を活発に行っていた様子が、魏略の公孫淵の上奏文から窺えます。

 

公孫度が艦隊を青州に派遣するが孔融の奇襲で敗れる

 

また、公孫度は、西暦194年頃、沓津(とうしん)から船で南下して

青州を陥れようとした事がありました。

この時には、あの屁理屈お化け孔融(こうゆう)が侵略を察知、

夜襲をかけて公孫度の軍勢を撃破して、精鋭を得たとあります。

或いは船に、烏丸族の騎兵を乗せて南下していたのかも知れません。

 

前述したように、遼東公孫氏は交易や戦争に活発に海船を利用しています。

それは海には自信がある海戦には強いという事かも知れません。

 

弥生時代の船から推測する遼東公孫氏の造船技術

 

現在の研究では、卑弥呼が活躍していた弥生時代から

日本と朝鮮半島には活発な交流があり、倭国の船も進歩し

外洋には出られない丸木船から進出可能な準構造船に変化していました。

 

準構造船というのは、丸木船を船の底にし、両舷に板を張り付けて

底上げし大型化したものです。

 

この両舷に張り付ける板を竪板(たていた)といい波を切る為に使います。

ただの丸木船なら、外洋に出てしまうと少しの波でも横転しますが

竪板を装備していれば、多少の波には耐えられます。

 

倭国へ、この技術を伝えたのは、当時、朝鮮半島にあった高句麗(こうくり)や

後漢の造船技術であると考えられています。

領土が海に面している遼東公孫氏は、このような外洋に出れる造船技術を

習得していて、内陸での戦いに明け暮れる魏より、海戦では

一日の長があったのではないかと思うのです。

 

公孫淵は魏を裏切り、呉に接近する

 

遼東の公孫氏は魏や呉より弱小ですが、魏の背後に位置していたので

魏も呉もその勢力を引き入れようと躍起になっていました。

公孫淵は、そんな魏と呉の思惑を利用し、最初は魏についていたのを、

西暦233年、校尉の宿舒(しゅくじょ)と孫綜(そんそう)を派遣し

呉に帰順したいと申し出ました。

 

孫権は気を良くして、重臣、張昭(ちょうしょう)などの反対を押し切り

公孫淵に燕王の位を授け、呉の海軍7000名余りを沓津に派遣しました。

 

当時の呉の軍船の最大クラスは、艦(かん)或いは楼船(ろうせん)と呼ばれ

全長20メートル前後、片舷に運行用の艪が20本以上並び、七枚の帆を張り

兵員を600~700名乗せられるという堂々たる巨船です。

 

心変わりし、孫権を手玉に取る公孫淵

 

しかし、公孫淵は、呉の艦隊が来た所で変心し、

呉の使節を皆殺しにし魏に寝返ろうと企みます。

はい、この公孫淵、かなり性格が悪いヤツなのです。

 

何も知らない呉の使者、張弥(ちょうび)と許晏(きょあん)、万泰(まんたい)

裴潜(はいせん)が四百名の兵と役人と贈物を携えて上陸してきたのを、

公孫淵は「この逆賊め」と罵り、兵を派遣して虐殺してしまいます。

 

そして、海上に船を停泊させていた、虞咨(ぐし)と賀達(がたつ)と

残りの6600余りの兵には韓起(かんき)という将軍に軍を率いらせ、

領長史の柳遠(りゅうえん)という人物に接待の準備をさせ

さらに、沢山の交易品を用意させ、取引しようと誘いを掛けます。

 

虞咨と賀達は様子がおかしい事を察知して、なかなか船から出ませんが、

事情を探ろうと、船に乗せてきた商人達、数百名を下船させると、

伏兵していた韓起が突然に銅鑼を鳴らして矢を射かけます。

 

混乱した商人達は、射殺され、海に落ちて溺死し、陸に逃げて食糧もなく

餓死するなどで数百人が命を失います。

虞咨は公孫淵に斬られ、賀達の生死は不明ですが、

おそらく呉の艦隊は四散してしまったのだと思われます。

 

 

公孫淵は、処刑した虞咨、張弥や許晏の首と孫権から贈られた燕王の衣類や

印綬、九錫、割符、武器等様々な贈物を魏に送り返し、

魏帝、曹叡(そうえい)から大司馬、楽浪公に任じられます。

 

完全な騙し討ちで卑怯の極みですが、計略を使って

7000名の呉の大船団を撃破したのは用兵的には

見事な手腕と言えると思います。

 

 

遼東公孫氏に負けず、海への知識があった呉

 

騙し討ちされたとはいえ、遼東公孫氏に負けず劣らず、

呉も海に船を出す技術を持っていました。

 

赤壁で曹操(そうそう)を破った優秀な水軍もありますが、

海上航海でも相当なノウハウがあり遼東半島ばかりではなく

亶(せん)州まで船を出し不老不死の薬を捜索させたりしています。

 

船団は、衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)という二人の将軍に率いられ、

台湾に上陸、その島の人間を捕虜にして連れかえりますが亶州は発見できず帰国。

多くの兵を疫病で失った事で孫権に罪に問われ投獄、獄死しました。

 

亶州は日本とも言われていますが、目的は果たせなかったとはいえ

堂々と危険な外洋に出ているのは、操船と造船技術に一定の自信が

あったからではないかと思います。

 

陸の戦いで撃破されてしまった公孫淵

 

このように海での戦いでは、自信があった公孫淵ですが、彼は陸で滅びます。

西暦239年、燕王を名乗り独立した公孫淵に対し曹叡(そうえい)

司馬懿(しばい)に四万の大軍を与えて攻撃させたのです。

 

司馬懿は、公孫淵が本拠地襄平を放棄して逃げれば上策、

途中の遼水という河で我が軍を防ぐなら中策、

襄平城に立て籠もるのが下策で必ず敗れますと言い、

 

公孫淵程度なら、襄平に立て籠もるのが関の山と予言します。

 

司馬懿の予測通り、公孫淵は、襄平に立て籠もり、遠征してくる司馬懿が

退却するのを待ちますが、司馬懿は襄平を包囲したまま動かず

食糧に苦しんだ公孫淵は和睦を願いでますが「和睦も降伏も許さんここで死ね」と

司馬懿の最期通告を受け、城は陥落し公孫淵は親子共々処刑されます。

 

海であれば、そこそこ良い勝負が出来たかも知れませんが、

陸上戦を選んだ辺りで公孫淵の命運は尽きていたようです。

 

Mrミラクル 船もないのに、呉の海軍を撃破した田豫

 

この話には、まだ続きがあります、実は、公孫淵は司馬懿に攻められると知り

一度はコケにした孫権(そんけん)にぬけぬけと援軍を要求してきました。

孫権は悪態をつきましたが、それでも艦隊を派遣して、戦を様子見させ、

公孫淵が勝ちそうなら出て行って恩を着せ、負けるようなら火事場泥棒で、

遼東で思う存分掠奪するように命令します。

 

はい!公孫淵に裏切られた事をシッカリ根に持っている言動ですね。

 

呉の援軍情報を知った曹叡は、田豫(でんよ)に兵を与えて備えさせます。

しかし、孫権が海軍で海路を行った為、船を持っていない田豫に帰還を命じました。

ですが、田豫は考える所があり、成山という土地の周辺に兵を展開しました。

 

時期的に呉の海軍が戻るのは晩秋になり、風は強風なる事から

呉軍は遭難を恐れて、陸地伝いに帰還しようとするので、

必ず沿岸にある成山の前を通過すると言うのです。

 

部下達は、誰もいない土地に兵を配置した田豫をバカにしますが、

果たして呉の艦隊は陸伝いに戻ってきて、秋の強風に煽られて山に激突、

次々と座礁して成山に漂着してきました。

 

田豫はこれを包囲して降伏を勧め、ことごとく捕虜にしました。

 

田豫の部下が呉の艦隊をかっぱらおうとするが・・

 

田豫の部下はさっきまでバカにしていた事も忘れ手柄を得ようと

小舟で海に入り鉤縄で呉の軍艦を鹵獲(ろかく)しようと提案します。

ですが、田豫は「そんな事をすれば追い込まれた呉兵が死ぬまで戦う」と

反対し、ついに許しませんでした。

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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