孫呉政権には多種多様な能力を持った人物がいっぱいおり、その中でも特に優れていた三人を孫呉の三君としてめちゃくちゃ褒めていた人物がおりました。
その人物は周昭(しゅうしょう)という人物で呉書(ごしょ)を編纂した人物の一人です。周昭は諸葛瑾(しょかつきん)、厳畯(げんしゅん)、歩騭(ほしつ)の三人を孫呉の三君として、褒めたたえておりました。なぜ周昭は周瑜(しゅうゆ)や魯粛(ろしゅく)、呂蒙(りょもう)など都督に選ばれた優れた人材や甘寧(かんねい)、凌統(りょうとう)、朱桓(しゅかん)など優れた将軍が孫呉にはいるのに、諸葛瑾 、厳畯、歩騭を選んで孫呉の三君と呼んだのでしょうか。
この記事の目次
士大夫(しだいふ)が失敗する原因とは
周昭は自ら書いた書物に諸葛瑾、厳畯、歩騭を孫呉三君として記しております。しかし諸葛瑾、厳畯、歩騭がどうして孫呉三君として呼ばれることになるのでしょうか。この理由を述べる前に士大夫(しだいふ)が失敗する原因をご紹介しましょう。
周昭は士大夫が失敗する大きな原因を四つ上げております。一つ目 士大夫が自分の意見に頑固なところである事。二つ目 名誉を求めたり権力をめぐって争うこと。三つ目 自らの派閥を形成し、派閥関係を重視する事。四つ目 慎重に事を運ぼうとしないでせっかちに事を進めていくことだそうです。以上四つが士大夫が失敗する主な原因となりますが、孫呉三君とどのような関係性があるのでしょうか。
四つの失敗を侵さなかった孫呉三君
孫呉三君は上記で上げた士大夫が失敗する事例の四つを一切犯すことなく、過ごしていたそうです。そのため周昭は諸葛瑾、厳畯、歩騭を孫呉三君として呼称し大いにほめたたえます。ですがここで一つ疑問点が浮かびませんか。諸葛瑾、厳畯、歩騭の一体どこがすごくて孫呉三君と呼ばれることになったのか疑問に思いませんか。ご安心ください。諸葛瑾、厳畯、歩騭は孫呉三君と呼ばれるにふさわしい特徴的な人物であったのです。孫呉三君がどのくらい特徴的であったのかご紹介していきましょう。
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孫呉三君のエピソードとは?
周昭は孫呉三君と呼ばれた諸葛瑾、厳畯、歩騭をベタ褒めしますが、ただ褒めただけでなく孫呉三君に選ばれた三人には特徴的な人物であったからです。一体諸葛瑾、厳畯、歩騭にはどのような特徴があったのでしょうか。
まず諸葛瑾は「遠くから彼を見つければ礼儀正しい人物と見えるが、近づいて彼を見ると温かみのある人柄であることが分かる。さらに彼と話してみると言葉の節々から決意に満ち溢れていることが分かる」と周昭は述べております。
さすが蜀の丞相・諸葛孔明(しょかつこうめい)のお兄さんですね。次に厳畯、歩騭のエピソードをご紹介しましょう。周昭は「恭しいが全く卑下したところがなく、威厳があっても猛々しさを相手に感じさせるところがなかった」と歩騭を評価しております。陸遜(りくそん)の後継者として丞相の位に就き、孫呉の難しい局面を乗り切った人物なだけあり評価もかなり高いです。
では最後に 厳畯のエピソードを見てみましょう。周昭は「学問をしっかりと修めるが、高い給料をもらうために学問を修めたのではなく利益を追求したわけでもない」と厳畯を褒めております。厳畯は学問を修めて孫呉で知らない者はいないとされるほど優秀な人物であり、魯粛の後継者として都督に任命されそうになるが、きっぱりと断っている行動からこのような評価が下されたのではないのでしょうか。身の施し方が綺麗な人物であったことが伺えます。周昭はこのような理由から諸葛瑾、厳畯、歩騭を孫呉三君として褒めたたえたのです。
孔子先生が述べた言葉に当てはまっていた孫呉三君
さらに孫呉三君と呼ばれた諸葛瑾、厳畯、歩騭の三人は、歴史上で超有名な孔子(こうし)先生が残した言葉に当てはまる行動をしておりました。孔子先生は「君子は厳格な態度は取るが人と争うことをしない。また君子は仲間を作るが仲間を利益によって省いたりすることをしない」と述べております。孫呉三君は孫権に仕える前から親友として付き合っておりました。その後三人は孫権に仕えて出世していくことになるのですが、厳畯のみが家に余財を残すことなく周りに寄付していたため貧乏でした。しかし諸葛瑾と歩騭は厳畯が貧乏だからといって仲間はずれにすることなく、今までどおり親友同士の付き合いを重ねて行ったそうです。まさに孔子先生の言葉をそのまま実現した孫呉三君。君子として当時の江南地方に彼らに勝る人材はいないと行っても過言ではなく、
周昭が諸葛瑾、厳畯、歩騭を孫呉三君として褒めたたえた気持ちが、分かるのではないのでしょうか。このように孫呉三君を褒めたたえた周昭は、最後に三君についてこのようにまとめておりました。
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孫呉三君についてのまとめとは!?
周昭は孫呉三君をこのように褒めたたえてから次のようにまとめておりました。周昭は「諸葛瑾、厳畯、歩騭は国家を経営するため、兵士を率いて東奔西走して軍功を求めて走り回っている将軍のような活躍や覇王や王者としての功績を残すような目立った実績を孫呉三君は残していない。
しかし孫呉三君の心は素直でかつ純粋であり正当な理由のない利益を追求することなく、名声と自らの行いを傷つけることが無い点では、当時の江南の人々は孫呉三君に及ぶことがないであろう。そして私は決して有名ではないが孫呉三君が残した生き方を功績として残して、後世の人々に伝えていきたいと思う」と述べております。周昭は孫呉三君の見事な生き方を後世の人々にも真似して欲しいと思ったからこそ、諸葛瑾、厳畯、歩騭を褒めたたえていたのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
いかがでしたでしょうか。今回は孫呉三君をご紹介しました。ここでは孫呉三君に選ばれた三人の武将のすごいところをもう少し詳しくお話しましょう。諸葛瑾は孫権から「子瑜(しゆ=諸葛瑾の字)殿とは生死を超えて誓い合った仲」と評価されるほどの厚い信頼を受け、孫呉政権にとってなくてはならない人材でした。
厳畯は学者として才能に秀でながら行政官としても優秀な統治能力を示し、魯粛の後継者として都督に任命されるほどの人物です。そして歩騭は優秀な人物を次々と推挙し孫呉政権を安定させた人物として有名で、歩騭が推挙した人物の多くが孫呉の政権で活躍しております。
また晩年は宰相として孫呉政権のトップに君臨するも師弟達を教育することに余念がなく、人材教育に熱心だった人物です。諸葛瑾、厳畯、歩騭が三君として称されていい人材であることがお分かりなったと思います。しかし周瑜や魯粛、呂蒙ら都督に選ばれて歴史に名を残すほどの活躍した人物や甘寧、凌統、朱桓など戦場で兵士を率いて戦い著しい武功を立てた将軍達と比較すれば、孫呉三君の勲功や武功は地味と言えるでしょう。
だが孫呉三君が勲功や武功、歴史に名を残すような実績を残した事で、選ばれたのではありません。周昭は孫呉三君それぞれの生き方が素晴らしかったからこそ、諸葛瑾、厳畯、歩騭を三君と呼んで褒めたたえ、後世に孫呉三君のような生き方を人々に真似て欲しいと願っていたのではないのでしょうか。レンは周昭がこのような願いを込めて孫呉三君として、諸葛瑾、厳畯、歩騭三人を選んだのではないかと考えています。
参考 ちくま文芸文庫 正史三国志呉書6 陳寿・裴松之著・小南一郎訳など
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