王昭儀(おうしょうぎ)は、晩年の曹操(そうそう)の寵愛を受けた女性であると言われています。しかし、寵愛を受けつつも子供には恵まれなかった彼女は、その後の身の振り方を考えないといけませんでした。いかに、曹操の寵愛を受けても、夫人達で厚遇されるのは、子供を産んだ者だけです、それ以外は曹操の死後はどう扱われるか分かったものではありません。
実際に曹操も死の間際には、子供がいない妻達の将来を案じて、内職の下駄作りの技能を身につけさせようと思っていた位でした。焦りを覚えていた王昭儀ですが、そこで曹操の妻の一人陳姫の死去の情報が入ります。
王昭儀にチャンスが巡ってくる
彼女には、生まれたばかりの曹幹(そうかん)という息子がいました。曹操は、王昭儀を呼んで、陳姫に代わり養育するように頼みます。これは、王昭儀にとっても、願ってもないチャンスでした。この子が大きく成長すれば、やがて王に封じられ自分の立場も王母として安泰になるからです。
魏では後継者争いで曹丕と曹植が対立
その頃、魏では、後継者問題が起きていて、家臣達は、曹丕(そうひ)派と曹植(そうしょく)派に分かれていました。王昭儀は、常に曹操の寵愛を受けていた事で曹操の言動を多く聞く立場にあったので曹操が、現実的には、お気に入りの曹植ではなく、嫡男の曹丕を後継者に据えると早くから判断していて、曹丕の生母、卞(べん)夫人と曹丕を擁護する動きを見せていました。
王昭儀の読みは的中し、曹丕が曹操を継いで、魏の初代皇帝、文帝として即位します。
曹丕の歪んだ性格
曹丕は、自分に優しくしてくれたものには恩義を返しますが、敵対したものには容赦をしない狭量で陰険な性格でした。かつて、曹丕に反対して、曹植を押した家臣達や、日和見をしていた、曹丕の異母兄弟は、不信と猜疑心に曝され、死に追いやられたり、領地を取り上げられたりしました。
しかし、一貫して曹丕を支持した王昭儀と義理の息子の曹幹には、曹丕は心を開き、曹幹を常に手元に置いていたと言います。異母兄弟とはいえ、曹丕と曹幹の年齢差は数えで30歳もあり、傍目からは、親子のように見えました。実際に曹幹は、曹丕を「お父さん」と呼び、曹丕は、曹幹を「お前は私の弟だ」と呼び涙を流したという話もあります。しかし、この話には、いささか生々しいものがあります。それは、曹丕が密かに王昭儀と密通していたという話です。
曹丕が密かに王昭儀と密通していた説
幼い曹幹は、母と曹丕が逢瀬をしているのを度々目撃し、曹丕を本当に自分の父であると勘違いしていたのではないか?という推測があるのです。実際に、曹丕は、曹操の後宮にいた女達を、そのまま自分の後宮に編入してしまい、実母の卞夫人から「汚らわしい」と軽蔑され、死後も実母は、曹丕の墓で泣かなかったという逸話もあるのです。真実は闇の中ですが、曹操との間で子供がいない王昭儀にとっては、義理の息子とはいえ、自分とほとんど年齢が変わらない曹丕と関係を持つ事には、それほどの抵抗が無かったのかも知れません。
曹丕は死ぬ直前まで王昭儀と曹幹を大切にしていた
曹丕は、後継者の曹叡(そうえい)に、王昭儀と曹幹に目を掛けるように、特に遺言して亡くなるなど配慮を尽くし、曹幹は5000戸を有して趙王にまで昇りました。歴史書は王昭儀について多くを語りませんが、猜疑心の強い曹丕の治世で、少しも嫌疑を受けなかったのは、かなりの力量がある強く賢い女性だったのではないでしょうか?