さて、1週間に渡り、梅雨の鬱陶しさを吹き飛ばすような笑いを提供してきたはじさんプレゼンツ、袁術のトホホな部下列伝も、本日でラストになります。ですので、当然、そのトリは秒速で皇帝になり秒速で没落した男、はじさんの自称アイドル、袁術様に飾って頂きましょう。
この記事の目次
名門なのに劣等感の塊、無理やり皇帝になり自滅した袁術(えんじゅつ)
袁術は西暦155年、4代に渡り、三公を出した名門、汝南袁家の宗家の跡取り息子として誕生しました。三公とは、後漢王朝における行政官の最高職で、司徒と司空、大尉の3つの役職を概ね差しています。今風に言えば、曾祖父の時代から、総理大臣、官房長官、防衛大臣、この辺りの職を代々、仰せつかっているという具合で、袁術はサラブレット中のサラブレットでした。
甘やかされて育った袁術は、ボンボンのヤンキーに育ち、悪い事をしては、悪事を実家の権力で、もみ消してもらうという典型的な馬鹿息子に育っていきます。
袁術の従兄弟の袁紹(えんしょう)の存在
そんな袁術には、袁紹(えんしょう)という従兄弟がいました。後に曹操(そうそう)と天下の覇権を賭けて争う三国志の群雄の一人です。
曹操と張り合うだけあり、袁紹は容姿も堂々としていて、威厳もあり、また、名の知れた名士とは幅広く交際しているという社交的な男で人気を集めていました。
同じ袁家でも、袁術の所には、袁紹程には人が集まらず、袁術は激しいコンプレックスを持ちます。そう、人望はお金で買う事が出来ず、ここで袁術は初めて人に負けるという屈辱を味わうのです。
袁術が袁紹に対してとった行動とは?
そこで、袁術が自分を納得させる為に持ちだしたのが、「袁紹は、母親の身分が低い、わしは父母とも身分が高いもんねー」という空しい血統第一主義でした。さらに袁術は、この袁紹の母親の身分が卑しいという事を、事あるごとに吹聴して、袁紹にさえ聞かせて名門をアピールしました。袁紹は内心腹が立ちましたが、表面はへりくだり、「いかにも、袁術殿には血統「では」及びませぬ」と言いました。時代は降り、群雄割拠の時代に入ると、袁術は揚州を陥れて、刺史の位につきます。
袁術が皇帝の野心が芽生えるきっかけとは
その頃には、後漢王朝は、すっかり没落し献帝は長安で暴虐を繰り返す李傕(りかく)・郭汜(かくし)の政治を逃れて放浪している最中でした。
それを見て、袁術の脳裏に、皇帝即位という野心が芽生えます。
「わしは袁術、選ばれた男、献帝を除けば、もっとも天下人に近い男だその献帝すら、いまや放浪の身、漢は滅亡した等しい、ならば、わしこそ、天下に唯一の皇帝に即位すべきではないか!」
皇帝は全宇宙でただ一人、天帝の命を奉じて世界を支配する存在です。皇帝に即位すれば、もう誰も袁術を越えられません。そう、あの袁紹でさえ、皇帝になった自分から見ればぺーぺーです。
袁術は皇帝になろうとするが部下から反対される
ですが、西暦195年の時点では、袁術の部下達でさえ、袁術の「わし、皆の期待に応えて皇帝になる!」宣言に反対しました。ここで、袁術は、一旦、野望を引っ込める事になります。ですが、袁術が皇帝への野望を捨てたのではありません。意気地がない屁理屈大魔王の袁術は、自分が皇帝になるのは天命であるという証拠を見つける為に、昔の予言書の類を探させます。
「わしは、皇帝になりたくないけど、もう予言されてるんだもん仕方ないよね、皇帝に即位しないと天意に背くもんね♪」
自分で言うのが駄目なら、怪しい文書を見つけて正当性アピール(笑)せこい、余りにせこい、流石は袁術です。
遂に袁術は自身が皇帝になる運命だと悟る(笑)
必死に予言書を探す袁術に朗報がもたらされたのは、間もなくでした。春秋識(しゅんじゅうしき)という予言書に「漢に代わる者は当塗高なり」という文言を発見したのです。
当塗高(とうとこう)とは、道に当って高いという意味です。袁術は、この塗(みち)を自身の字の公路に無理やり当てはめます。公路の「路」は、塗と同義で同じ意味だったからです。
「見ろ!当塗高とは、即ち、わしの字公路の事ぞ!漢の天下に代わるのは袁家の名門、この袁術の事じゃ!」
うーーーん、これはこじつけがヒドイような気もするけど、、そして、この頃から袁術は袁家の先祖をいにしえの黄帝に連なると宣伝するようになります。これにもちゃんと皇帝即位の伏線があり、王朝交代を理論づける五行相生説に準拠しています。
五行相生説って何?
①黄帝は「土」②夏王朝は「金」③殷王朝は「水」④周王朝は「木」⑤漢王朝は「火」。歴代王朝は、このサイクルで交代を繰り返しているというのが五行相生説で、これに従うなら、漢の次は「土徳」つまり黄帝の子孫になるのです。これも突っ込みどころ満載で、五行説にも、色々説があり、そもそも、解釈次第では、どうとでも言えるものでした。
ましてや、同門の袁紹は、自身が黄帝の末裔だと言っていないので、袁術の黄帝末裔論も、怪しいものです。でもいーんです!そんなのはどうでもいーんです!!袁術は皇帝になりたくて仕方がないのです(笑)
わしは、何としても皇帝になりたい!!それが袁術の本音だったのです。
袁術、遂に皇帝に即位
西暦197年の正月、袁術は反対を押し切り、皇帝に即位します。まさに袁術の人生最良の日でした、この日、袁術はこの地上の全ての人間の頂点に立ったのです。あくまでも、袁術の価値観の中での話ですが・・・・・・
献帝を保護している曹操は、これを知り激怒、袁術を取り囲む群雄に資金と官位をばら撒いて、袁術を逆賊として討伐するように勅命を下します。
こうして、その人生の絶頂から僅か2年後、贅沢と疫病、大飢饉、相次ぐ敗戦で全てを失った袁術は、食べるものも飲むものさえない飢えと渇きの中で44年の生涯を閉じました。因みに、春秋識の予言に出てきた、当塗高ですが、これは素直に読むと道に当って高いですが、これは、魏という漢字の原義である
「高くて大きいに」を暗示する言葉だったりします。袁術が無理矢理の解釈で読んだ予言は、実は曹操の躍進を予言するものだった事になりますね。(笑)
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