諸葛瑾のイメージと言えば、孔明の兄、ロバの人、温和な人物などがあります。しかし、多くの人は、あの気難しい孫権に一度も左遷されないばかりか、むしろ多くの賞賛の言葉を得ている事を不思議には思うのではないでしょうか?
実は、諸葛瑾こそは張昭さえも上回る孫呉の派閥のTOPに立つ人物であり、その絶大な影響力を恐れる故に、孫権は手を出さなかった・・かも知れません。
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厳畯、歩隲、魯粛、張昭、諸葛瑾を中心に広がるネットワーク
諸葛瑾の武器、それは、およそ人を裏切った逸話がない誠実な人柄です。そして、その人柄が武器になって組み上げられた徐州出身者のネットワークでした。諸葛瑾は、まだ孫呉に仕官する前から厳畯や歩隲とは友人でしたし、クレイジーボーイと呼ばれた、臨淮の魯粛とも早くから、親交を結んでいました。
孫呉では何を言っても孫権に処罰されない程の重臣だった張昭とは、直接の関係が見られませんが、張昭の息子、張承とは古くからの親交があり張承が妻を亡くすと諸葛瑾の娘が後妻に入っています。つまり張承の義理の父が諸葛瑾になったのです。これは、並々ならないネットワークだと言えるでしょう。赤壁の戦いでいえば、主戦派の魯粛、降伏派の張昭と瑾ちゃんは繋がるのです。
そのせいか、諸葛瑾は西暦200年に魯粛と揃って孫権に会見しているのに魯粛と違い208年の赤壁の場面では、一言の発言もありません。
内心では弟が仕える劉備の方に味方したかったのでしょうが、工作については親友の魯粛に全て任せて、自分は口を閉じて「これは難しい、難しいぞ」という顔をしていたのでしょう。難しい表情をして廟堂に立っている諸葛瑾を想像すると面白いです。
メッセンジャー魯粛を通じて弟孔明とも連携
孫呉の国内では、かなり強固な人的ネットワークを形成した諸葛瑾ですが、それに匹敵する程のネットワークを蜀との間に構築する事になります。弟の孔明が丞相になり、政治を取り仕切るようになったのです。しかし、諸葛瑾はロバ顔ですが(関係ない)慎重な人物ですから、直接、孔明とやり取りをして自分の力を誇示しようとはしません。上手く行く間は、それでもいいですが戦争でも起きようものなら、関係の深さが仇になるからです。
そこで活用されたのが腹心の魯粛でした。何しろ、魯粛は初対面の諸葛亮に「諸葛瑾とは友達です」とPRして、早速、交友関係を結んでしまうような人です。余りにも素早い交友の結び方には、あらかじめ諸葛瑾より、「私と弟の連絡係として行動して欲しい」と吹き込まれていたそんな可能性を感じてしまいます。
諸葛瑾の意図は魯粛に吹き込まれ、二人でセッションをした結果、魯粛の言葉として孔明に伝わった、そのようにも考えられます。一見、魯粛と孔明との間に見えるやりとりは、本当は諸葛瑾、魯粛、孔明の間の三者会談だったわけです。
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周瑜よりも諸葛瑾と深く繋がった魯粛
魯粛と言えば魏の圧力に対し周瑜と共に主戦論を繰り広げた人です。ほとんど義兄弟に近い関係だと思うのですが、そんな魯粛も、対蜀政策では、周瑜と距離を置き融和策を取り続けました。
これは蜀に孔明がいて、何かと利用できると踏んだ諸葛瑾と魯粛の謀議の結果なのではないかと思われます。どうしても劉備と敵対する周瑜が間にいては、諸葛瑾=孔明のパイプが活用できないので、魯粛は政治上では、周瑜と違うスタンスを取ったというわけです。極論すると魯粛は揚州出身者の周瑜より同じ徐州出身の諸葛瑾のグループを信用していたという事のように思えます。
魯粛の死後は孔明とのパイプを強調し乗り切る
メッセンジャー魯粛の死後、対蜀関係では厳しい立場に立つ呂蒙が台頭すると諸葛瑾は、劉備とは距離を置くように関羽の討伐戦に参加しています。
関羽を殺されて激怒した劉備が夷陵の戦いを引き起こすと、諸葛瑾は孫権の命令を受けて和睦の使者になりますが劉備の決心は変わりません。呂蒙の死後、対蜀担当司令官は再び強硬派の陸遜になってしまいます。この頃、諸葛瑾は呂蒙を引き継いで南郡に駐屯、蜀との国境である事から諸葛瑾は劉備のスパイであり孫呉を裏切ると風聞が立ちます。
総司令官の陸遜は「そんなものはデマに過ぎない」と取り合いませんが一応、風聞を孫権に伝えて意見を求めます。ここに、呂蒙、陸遜の流れからくる徐州閥、諸葛瑾への一定の不信感が見て取れます。しかし、孫権は「諸葛瑾が私を裏切らないのは、私が彼を裏切らないのと同じ」と堂々と発言して諸葛瑾を庇い、デマを気にしないように総司令官、陸遜に言い含めました。
孫権の度量を示す逸話ですが、もしかして孫権は劉備が敗北した後、蜀の体制が孔明で一本化される可能性を諸葛瑾から聞き及んでいたのではないでしょうか?気が小さい孫権は、魏にも接近していますが、もう一つ保険を掛けるつもりで諸葛瑾を排除せず鷹揚に扱ったのです。
諸葛瑾は諸葛一族のパイプを駆使し、夷陵の戦いに協力しない事を弟と打ち合わせ、気の弱い孫権に吹き込む事で孫呉で生き残りを果たしました。
劉備の死後、弟と堂々と交際、養子まで出す
結局、夷陵の戦いは劉備の大敗で終り、劉備は間もなく白帝城で病没孫権の保険は当たり、孔明主導で呉蜀の関係は回復します。そして、劉備の死後、諸葛瑾はあれほど公私の別を気にしていた弟の孔明と堂々と交際するようになり実子のいない孔明に、次男諸葛喬を養子に出しています。
劉備がいなくなり、弟とは万全の連絡が取れている以上、もはや蜀との問題で不測の事態は起きないと踏んだのでしょう。234年の諸葛亮の最期の北伐では、諸葛瑾もこれをサポートして陸遜と連動して魏に出兵しています。
また、229年には厳畯が孫権の即位を報告する為に蜀に赴きます。本来なら、後漢の正統を任じ魏を偽物と罵る蜀政権が蜀・呉の二帝並立を受け入れるわけないですが、ここも孔明が主導して反対派を抑えこんで容認しました。蜀の正統性を歪めかねない大事件も、結局、孔明=諸葛瑾ラインで穏便に処理されてしまうわけです。もちろん諸葛瑾から「どうか穏便に」という働きかけがあったのは間違いない事でしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
諸葛瑾の評価は、誠実で交友関係が広い人畜無害の人材というイメージです。しかし、実際は交友関係の広さは、何があるか分からない乱世において身を守る保険だったのでしょう。諸葛瑾が、曹操に対して正反対のスタンスを取る魯粛と張昭の息子の張承と交遊を結んだところにそれを見て取れます。
諸葛瑾は交友関係を駆使し孫権に成り代わろうとする権力亡者ではなくむしろ神経質なほどに、そう思われる事を警戒していましたが、本当に凡庸な人なら、歩隲や魯粛、厳畯、張承のような逸材が交際を求めるとも考えにくく、事実は孫呉の中で隠然たる影響力を持つ黒幕だったのです。
ただ、諸葛瑾は孔明同様に補佐として孫呉を盛り立てる事に力点を置き気まぐれで猜疑心が強い孫権が、有能な人材を左遷したり処罰しようとするとおもむろに登場して、古来の教訓話を出してやんわりと諫言しました。
孫権も諸葛瑾を疎まないではないのでしょうが、へそを曲げられると対蜀のパイプを失う上に、歩隲や厳畯、張昭のような重臣との間にも波風が立つので極力、褒めそやし受け入れたのでしょう。孫呉の穏やかな黒幕、それが諸葛瑾の正体だったのです。
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