三国志演義の原作者と考えられている羅貫中(らかんちゅう)ですが、
彼が元末の戦乱時代に、張士誠(ちょう・しせい)の幕僚として
働いていた事は余り知られていません。
三国志演義の合戦シーンは、もちろん14世紀のものですが、かなり
リアルで臨場感があるとされていて、それは羅貫中が実際に従軍していて、
戦場の様子を知っていたからだと言われているのです。
羅貫中が生きた時代はどんな時代だったの?
羅貫中が生きていた、14世紀後半、中国ではモンゴル民族の元が衰え、
白蓮教という新興宗教をバックに、朱元璋(しゅげんしょう)
陳友諒(ちんゆうりょう)、そして張士誠という3名の実力者が、
それぞれ王を名乗っているという三国時代でした。
羅貫中は、その中でも江南を抑えていた張士誠の幕僚だったのです。
赤壁の戦いに似ている戦いが起こった
実は、この3者の内の陳友諒と朱元璋は、西暦1363年、
天下分け目の八陽湖の戦いを起して激突するのですが、
その戦いの様子が、赤壁の戦いにとても良く似ているのです。
「陳友諒は朱元璋に覆された優位を挽回すべく形勢逆転を狙って、
巨艦数百艘、兵員60万と号する大船団を南昌に向けた。
それに対して朱元璋は、白塗りの小型船を中心にした20万の大軍を
動員して陳友諒と対峙した。」
どうですか?数に違いはあるのですが、曹操と孫権の赤壁の戦いに
シュチュエーションがそっくりではありませんか?
戦いをさらに追っていきましょう・・
「陳友諒の船団は、巨艦を集めて艦と艦を鎖で繋いで陣としていた。
一方で朱元璋の船団は小型船が中心であり火力を重視した。」
巨艦を集めて、艦と艦を鎖で繋いでいた
これって連環の計ですよね!
もう少し、話を進めてみましょうか・・
「朱元璋の軍は小型の船が多く、陳友諒の巨艦に恐れをなして
戦いは不利だった、陳友諒の部下の勇将張定辺(ちょうていへい)が、
一時朱元璋の旗艦に肉薄するほどの苦戦を強いられていた。」
成程、ここでは巨艦が優位に働き小船の朱元璋の軍は苦戦を強いられた。
ここは、赤壁の戦いとは違います。
「しかし陳友諒側は長期包囲戦の後の疲労もあり、
朱元璋軍の通海率いる火砲船団が鈍重な陳友諒の船舶を砲撃して
次々を火だるまに変えていき、戦いの主導権は朱元璋に移りつつあった。」
三国志演義にはない、新兵器の火砲を連続で使って陳友諒軍の巨艦を
どんどん火だるまにしたとあります。
そして、次の件では決定的な事が起きます。
「戦いの3日目に、にわかに東北の風が吹いた。
朱元璋は決死隊による火船七艘を陳友諒に突っ込ませたため、
折からの強風で身動きのとれない巨艦は一気に炎上
「煙焰天にみなぎり、湖水ことごとく赤なり」という地獄絵図になった。」
↑どうですか!どうですか! これどう見ても、孔明が東南の風を吹かせて
黄蓋が苦肉の計で降伏を偽り、火のついた船を突入させた件と同じですよね!
この戦いで60万を号した陳友諒の軍は、水死、戦死数え切れないという
大惨敗を喫して、陳友諒も、弟で勇将の誉れ高い陳友仁戦死して、
翌年に陳軍は、朱元璋に降伏してしまいます。
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赤壁の戦いと八陽湖の戦いが酷似している
この八陽湖は、赤壁よりは、ずっと東側なんですが、同じ長江の上での
戦いで、雰囲気も似ています。
あくまでも仮定ですが、この戦いのあらましを羅貫中は知っていて
これをリアルに赤壁の戦いに引用したのではないでしょうか?
ちなみに、この朱元璋は、ほどなく江南に地盤を持っていた張士誠を攻め滅ぼし
1368年に中国を統一して明を建国しています。
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