諸葛亮とともに「臥龍・鳳雛」と並び称された、鳳雛先生こと龐統。劉備に仕えては、諸葛亮とともにダブル軍師中郎将をつとめ、ブレーンとして劉備の蜀取りに貢献しました。三国志演義では、劉備の腹心としてまごころ勤務をしている龐統。
三国志演義より前に刊行された「三国志平話」では、劉備に対して斜に構えたところのあるイササカ難物先生として描かれています。
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諸葛亮に出し抜かれて寝込む周瑜に同情
三国志平話の龐統は、誰にも仕えていない道士としてふらりと物語に登場します。それより前のシーンで、呉の周瑜が曹操軍から荊州南部を奪取しようとした際、周瑜は曹操軍の放った矢によって肘を負傷していました。その後、荊州南部は劉備軍に横取りされてしまい、周瑜は煮え湯を飲まされ腹立ちのあまり傷口が何度も破れ、重態に陥りました。そこへふらりとやってきたのが龐統です。
顔面が腫れ上がり、飲食もできなくなった周瑜を見て、龐統は周瑜の頭をかき抱き、声をあげて泣きます。「弟がこんなことになろうとは!」え。龐統って周瑜と義兄弟だったんですか。っていうか、これ三国志平話のオリジナル設定では……。(そういう劇や民話があったのかも?)一方、三国志演義では、龐統は最初少し呉で働いていましたけれども、周瑜との個人的な交誼は描かれておりません。
完全に周瑜の味方
三国志平話の周瑜は劉備が実効支配している地域のただ中で亡くなってしまい、龐統は劉備たちが天文から周瑜の死を悟ってそれにつけ込むことを恐れ、周瑜の将星が落ちないよう星に呪文をかけました。
そうして、周瑜の亡骸を呉の根拠地まで送り届けようとしました。長江を渡ろうとすると、劉備の軍師・諸葛亮が行く手を阻んでいます。「周瑜が死んだことはお見通しだ。将星を圧したのは龐統のしわざだろう」龐統が諸葛亮に事情を話すと、諸葛亮は通行を許可しました。
周瑜のために星に呪文をかけてまで亡骸を呉に運んであげようとする三国志平話の龐統は、完全に周瑜の味方ですね。これに対して、三国志演義の龐統は周瑜のことにはほぼノータッチです。諸葛亮が周瑜の弔問に訪れた時には笑いながら諸葛亮の袖を掴んで「周瑜を憤死させておきながらぬけぬけと弔問に来るとは、呉に人なしと侮ってか」と言っていますが、“アハハハ、冗談だよ孔明ちゃん” “なぁんだ、士元くんか、びっくりさせるなよぉ”という感じで、周瑜への思い入れはそれほどない様子です。
※孔明は諸葛亮のあざな、士元は龐統のあざな
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劉備に仕えるが、嫌になったら反乱を起こす
三国志平話では、周瑜の葬式が終わって龐統が地元の荊州に戻ると、天に帝星が朗々と輝き、荊州を照らしています。その天文の様子を見て、龐統は現在荊州に居座っている劉備が大人物であることを知り、劉備に仕官しました。
劉備が龐統に与えた役職は耒陽県の県令(長官)で、こんなちっぽけな役職じゃあボクの能力が発揮できないよ、とばかりに龐統は仕事をなまけます。それを知った張飛が耒陽県に乗り込んで龐統をめった斬りにすると、血が泉のごとく湧き出しましたが、かぶさっている衣服をどけてみると、中には犬の死骸があるだけでした。嫌気がさした龐統は、劉備が居座っていた荊州南部の四郡を煽動して反乱を起こしました。
この部分、三国志演義では張飛の追求を受けた龐統が半日で事務を片付け張飛らをびっくりさせてから劉備に重用されることになっています。平話の龐統は変わり身の術で逃げ出して反乱を起こしていますから、演義に比べてずいぶんファンキーです。
魏延らと一緒に劉備に投降
荊州南部四郡の反乱のリーダーとなった、三国志平話の龐統。二つの郡が劉備によって落とされましたが、龐統が守っている郡は健在で、劉備軍を苦しめます。ここに龐統がいるに違いないと悟った諸葛亮は、龐統に手紙を届けました。それを読むと、龐統は郡の名将・魏延をそそのかして郡太守(長官)を斬らせ、魏延とともに諸葛亮に投降しました。
三国志演義では「反骨の相がある」といじめられる魏延は、三国志平話では「名将」なんですね。劉備に目通りした龐統は劉備から「賢人である」と評され、魏延は「賢徳なる者である。わが弟の関羽ほどではないが」と評されました。(三国志平話では、魏延は憎まれキャラじゃないんですね!諸葛亮にいじめられるシーンもありません。諸葛亮没後の内乱もなしです!)
益州奪取に手間取るのは劉備のせい
劉備のブレーンになった龐統は、劉備が益州の助っ人になると見せかけて益州を乗っ取るという作戦に同行します。ようこそ助っ人に来て下さいましたと益州牧(長官)・劉璋が劉備を出迎えると、
龐統はその場で劉璋を暗殺しようとし、劉備に止められました。三国志演義では溜息をついただけの龐統ですが、三国志平話では「今日この地を得られなかったのは私のせいではありません。ご主君のせいですぞ」と劉備を責めます。後日、劉備が益州を乗っ取ろうとしていることが劉璋にばれて周りじゅう敵だらけになってしまった時、三国志演義では敵を誘き寄せて殺すよう献策している龐統ですが、
三国志平話では「窮地に陥ったのは私のせいではありませんぞ」と劉備を責めています。そして、有効な策も出さないまま劉備と同道して、敵の矢を受けて死んでしまいました。劉備の失策をフォローせずに文句だけ言って死んでしまう三国志平話の龐統……。
黄忠のところに化けて出る
龐統の死後も益州侵攻を進める劉備。三国志平話では、昇仙橋という難所で劉備軍は行き詰まってしまいました。ある晩、かつて龐統と一緒に劉備に投降した黄忠のもとに、龐統の幽霊が現われてこう言います。
「三日で敵を破ることができるだろう。将軍は黄色の袍を着て陣に出られよ。私が暗に助けて功を挙げられるようにし、主君に昇仙橋を手に入れて頂こう」
三日後、黄忠が出馬すると、雷のような音がとどろき砂嵐がおこり、木々は折れ建物も崩れるほど。黄忠は敵の要塞の門を刀で叩き壊し、門内に押し入って守将の張任を斬りました。このファンタジー描写は、三国志演義には一文字も書かれていませんね……。演義の張任は諸葛亮の計略で捕らえられ、降伏せずに斬られたんですし。生前には劉備に協力せず、幽霊になってから同僚の黄忠の手助けをする三国志平話の龐統。劉備への協力の仕方はかなりおへその曲がったやり方です。よほど劉備のことがいけ好かなかったとみえますね。
三国志ライター よかミカンの独り言
三国志演義の龐統は、劉備が益州の関所を落としてホクホクして喜んでいる時に“他人の国を奪って喜ぶなんて無神経なヤツ”とつっこみを入れるという、敗者の心情を慮ることができる人情派な一面がある以外は、劉備にまごころ勤務をしています。一方、三国志平話の龐統は、劉備に対してはしじゅう斜に構えており、反乱を起こしたり幽霊になったりと、一筋縄ではいかない人物になっています。
正史の三国志では龐統は呉の人士と交流がありますので、そこらへんから龐統の呉寄りのイメージが膨らんだのでしょう。大衆の娯楽として成立した三国志平話の中ではイケメン周瑜が人気者であるところから、劉備に降りながらも反抗的な龐統像を描いて、周瑜の敵の劉備に龐統が一泡ふかせるようにして読者にスカッとして欲しかったのではないでしょうか。物語系の三国志では、誰が人気者であるかによって、その周囲の人物の造形が全く違うものになってしまうことが多々あるようです。三国志平話のおへその曲がったファンキー龐統、自由人ぽくて面白いと思いました。
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