春秋戦国時代、列強諸国が時代の覇者たることを求めて争った戦乱の時代です。それは立身出世のチャンスにあふれた時代でもあったのです。諸子百家(しょしひゃっか)のひとつ、口先のうまさで乱世をわたった『縦横家』とは、どんな人達だったのでしょうか?
三寸不爛の舌を武器とした縦横家
孔明:「私めがこの三寸不爛の舌を振るい、必ずや孫権して曹操に当たらしめてみせましょう」
曹操の大群が荊州へ侵攻してきた時、諸葛孔明は劉備にこう進言し、
自ら外交特使として呉の孫権の元に赴き、曹操と開戦させることに成功します。
『三寸不爛の舌』とは中国語の熟語で、口先の達者な者や、よくまわる舌を意味します。
日本語の『舌先三寸』と同じようなニュアンスでも使われる言葉ですね。
春秋戦国時代、多くの論客が外交の特使として活躍しました。
彼らは『三寸不爛の舌を振るって』諸侯を説得し、しばしば諸国の外交関係を大きく変えるきっかけを作りました。
このような活動をした人たちのことを縦横家と呼びました。
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縦横家の目的は、あくまで自分の社会的成功だった
儒家や法家といった他の諸子百家たちも、しばしば自らの弁舌を以って諸侯を説得しましたが、
基本的にその活動はあくまで自分自身の理念を実現し、理想的な国家を建設することを目的としていました。
縦横家が他の諸子百家と大きく異なる点がそこにあります。
縦横家には己自身の理念というものはありません。
彼らはその時々の情勢に従って己の意見を替え、説き伏せようとする相手の気に入りそうな政治手法を語って喜ばせようとしました。
理念の実現のためではなく、あくまで自分自身の社会的成功のためにその舌鋒を振るう。
ある意味で、彼らは乱世の職人と言えるかもしれません。
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合従連衡
縦横家を代表する人物に、蘇秦(そしん)と張儀(ちょうぎ)がいます。
蘇秦は戦国時代の後期、強大化した秦に対して各国が連合を組んで対抗する策を諸侯に説いてまわりこれを成立させます。
蘇秦のこの策は『合従』(がっしょう)と呼ばれました。
実は蘇秦は合従の策を諸侯に説いて回る以前に秦に赴き、秦が覇者となる方法を説いたと言われています。
結局秦は蘇秦の策を取らず、彼は諸侯に合従の策を説いてまわることになったのでした。
合従策で諸侯が秦に対抗したのに対し、秦が各国と個別に交渉して連合から離脱させようとしたのが、張儀の説いた『連衡』の策でした。
張儀の連衡の策によって15年続いた諸国の連合は崩れてしまいます。
この二つの故事から、国同士が状況に応じて連合したり離反しあう様子を『合従連衡』と呼ぶようになりました。
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それにしても、なんで“縦(たて)”と“横(よこ)”なの?
合従策で連合した諸侯は南北=縦に並んでいました。
秦は連衡策で横からこの連合を崩していきました。
縦横家は、この合従連衡の様子からその名がついたのです。
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三国時代にも縦横家っていたの?
縦横家のイメージから連想される三国時代の人物と言えば、賈詡の名前を上げることができるのではないでしょうか?
(彼自身が縦横家を名乗ったわけではありませんが)
始め、賈詡は董卓に仕え、董卓が呂布と王允によって暗殺されると策を講じて呂布を追放、王允を殺害して長安の都の奪還に功績を上げました。
その後、賈詡は張繍に招かれその配下となり、敵対していた曹操を奇襲して、曹操軍の将軍だった曹昂と典韋を打ち取る戦果をあげています。
しかし、曹操が袁紹と官渡の戦いに臨むと、今度は張繍を説得して曹操に降伏させます。
賈詡の才能を見抜いていた曹操は彼を重用し、以後賈詡は魏の重臣として活躍、その生涯を全うしたのでした。
次々と主君を替えつつ、己の弁舌を以って戦乱の世を渡り歩く……
賈詡の生涯はまさに縦横家的だったとは言えないでしょうか。
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