黄巾賊の乱と漢王朝について。。。
西暦184年2月に起きた黄巾賊の武装蜂起は、たった9カ月で終息します。
しかし、それは漢王朝の屋台骨を揺るがすには充分でした。
前回記事:実は、最初から作戦に失敗していた黄巾賊
当時の中国王朝の政治システム
中央集権体制下の中国王朝では、「官」と「吏」が政治を支える二重のシステムでした。
日本では官吏(かんり)とくっつけて呼ばれますが、中国では官と吏は別です。
官は、中央政権に参画するキャリア官僚で、地方の県令から順調に出世して、
中央の政治に関わる存在になっていきます。
一方で吏は、地方で採用され官に仕え、一生をそこで終える存在でした。
つまり、吏の立場になると、どんなに優秀でも、お呼びが掛からない限り
中央政界にデビューする事は決して無いのです。
歴代の中国王朝は、こうして多くの吏を地方において、下役にして使い。
中央には官を置いて、吏を支配するという体制を取っていました。
黄巾の乱で支配体制が崩壊してしまった
後漢王朝もそういう支配体制を敷いていましたが、
黄巾の乱で原則が崩壊してしまいます。
漢の正規軍は弱く、単独では黄巾賊と戦えない為に、
地方の諸候の軍勢や義勇兵の農民を正規軍に加えて戦う羽目になったのです。
そのように正規軍に組み込まれた軍には、孫堅や、
菫卓、そして劉備のような人々がいます。
彼等は、戦争に強いので、採用され地方の争乱の鎮圧を命じられた
下級の役人であり、平時なら決して中央に昇る事はありませんでした。
ところが、黄巾の乱が、彼等を中央に招き寄せてしまったのです。
少しずつ歯車がずれていく漢王朝
西暦189年、霊帝が死去し、宦官の十常侍との勢力争いをしていた
外戚の何進は、宦官を皆殺しにして、宮廷の腐敗を一掃しようとします。
しかし、妹である何皇后が、十常侍の肩を持ち和解するように促すので、
思うように、事を進める事が出来ませんでした。
そこで、何進は、部下の袁紹と協議し何皇后にプレッシャーを掛ける為に
菫卓等のような、地方の軍閥に洛陽に上るように命令を出します。
何進の中には、地方の軍閥を上手く使ってやろうという考えがあったのでしょう。
ですが、何進の浅墓な行動は、後漢王朝の滅亡を早めてしまいます。
菫卓は、洛陽に軍を進めますが、その間に何進は、騙されて十常侍に暗殺され、
逆上した配下の袁紹は、軍を率いて宮殿に乱入し宦官を皆殺しにします。
大混乱に陥った十常侍の段珪(だんけい)は皇帝である、
少帝(劉弁)と劉協(後の献帝)を連れて王宮を脱出します。
そして、運悪く、段珪は、洛陽に進軍してくる菫卓の軍勢3000名に目撃され
逃げ切れないと思った段珪は受水自殺したのです。
董卓によって救出された少帝と劉協の二人
少帝と劉協の二人は、菫卓(とうたく)によって救出されてしまいます。
こうして、大混乱に陥った洛陽に菫卓は、皇帝を擁護して堂々と入場するのです。
この後に何が起きたかは、三国志をご存じの方には説明不用でしょう。
何進は、自分の欲望の為に、地方の軍閥を引き入れるという愚策を実行しましたが、
その契機は、黄巾賊の叛乱により地方軍閥の力が中央に認識された
という事にあったのでした。
黄巾の乱が無ければ、菫卓は一生を辺境民族を討伐する地方役人で終わり、
決して、中央に上り、皇帝の如く振る舞う事も無かったのです。
次回記事:12話:黄巾賊の反乱を平定した漢王朝と残念なくらい無能な霊帝