歴史にifはありません。歴史とはすでに起こってしまった過程であり、結果です。
それを後からどうこう言うのはナンセンス、そう言われても「もしも」「if」を考えてしまうのが歴史好きという生き物。
そこで今回は樊城の戦いに注目して、「if」を、こうしていたら関羽は樊城で負けなかったんじゃないか、を考えて見たいと思います。
簡単に樊城を振り返ってみる
ではまず簡単に、樊城の戦いを振り返ってみましょう。樊城の戦いはまず曹仁が守る樊城を呉、蜀の同盟軍で叩くことにありました。
しかし序盤で呉は都督である呂蒙が体調不良により欠席、しかし関羽は勢いに乗って樊城を包囲、援軍に来た于禁の軍を降伏させ、樊城の北の偃城も包囲。
しかしそこから不思議なほど強固に曹仁が粘って、ひと月後に今度は10万という大軍を率いて徐晃がやってきます。流石にこれには関羽も太刀打ちできず、というかそれ以前に補給が上手くいっておらず、撤退。
その後、配下や呉の裏切りによって捕縛、斬首という流れになっています。駆け足で見るとこんな感じです。
樊城の戦いは最初の方は天が味方しているのかというほど、関羽は勝ち進みます。于禁軍が敗北したのも、大雨による水害での被害が大きかったのですから、これは勢いに乗って樊城を落とせるんじゃ?という気にもなろうと言うものですね。
でも最終的には裏切りからの敗北、どうしてこうなったのか?そこで「if」。もしも、こうしていたらを考えていきましょう。
そもそも関羽の性格が…
元はと言えば呉が裏切ったのも、部下の糜芳らに裏切られたのも、関羽の性格による所が大きい。だったら関羽の性格がもう少しどうにかなっていたら、どうでしょうか。
例えば孫権との外交を下手に出れたら、受け流せるほどの外交手腕があれば、そもそも高圧的に孫権を罵らなければ、まだ望みはあったのか?
糜芳らに普段から厳しかったが、それがなければ?もしかしたらこの結末もなかったかもしれませんね。ここは関羽の性格ありきの問題なのでやや「if」が難しいので、戦術的な面からも考えていきましょう。
最大の敗因は、援軍を捕虜にしたこと?
筆者は樊城の戦い最大の失敗は、于禁軍の援軍を捕虜にしてしまったことだと思います。捕虜にしてしまったことで補給路確保が難しくなり、兵を割かなければいけなくなりました。これが捕虜さえいなければ糜芳との確執も少しは薄くなったかもしれませんし、徐晃とも真っ向勝負ができていたかもしれません。
降伏した兵を丸ごと捕虜にして食事を与え、しかも足りなくなったら呉という同盟軍から略奪。
これこそが関羽の最大のミスであり、同時に関羽という人間が義侠心があるというか、降伏者であれば敵でも見捨てない人物であるという魅力の分かる瞬間でもあります。
李典の援軍の上手な使い方は…?
では「if」として捕虜を関羽はどうするべきだったのか?個人的には武装解除後、解放でしょう。解放された兵士はどこへ行きますか?樊城ですね。樊城は現在どのような状況にありますか?籠城戦の真っ最中ですね。ええ、もはやどうすることもできません。逃げてきた兵を見捨てれば士気はもっと下がります。しかし受け入れれば食事もままならなかった樊城はほぼ持ちこたえられなくなります。
そして受け入れようが受け入れまいが、頼みの援軍はもう樊城にこないのです。実際には翌月に援軍が来ますが、その状態で果たして樊城は持ちこたえられたでしょうか?対する関羽軍は援軍分の補給消費がなくなりますから、こちらにはプラス、相手にはマイナスの理想的な状況が作ることができます。
この卑怯とも言えるような手段を関羽が取ることができれば、もしも関羽がこの戦い方を選んだならば。樊城の運命は、そして蜀の運命は大きく変わっていたのではないかと思います。
三国志ライター センの独り言
歴史という既に終わった過程、結果を眺めているだけですから「もしも」も「if」も言うのは簡単なことです。しかしこの「if」を樊城の戦いで関羽がしていたら、どうなっていたでしょうか?
「しなかったから樊城の戦いでは負けた」ではなく敢えて「しなかったからこそ関羽は義侠心のある人物と呼ばれた」。決して関羽の戦略を貶める理由があってこれを書いた訳ではない、その思いを最後に綴らせて頂いて、まとめとしたいと思います。
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