馬謖最大の失策ともいえる「街亭の戦い」。故事「泣いて馬謖を斬る」もここから生まれました。それでは蜀軍と魏軍の双方から考察してみましょう。
馬謖の布陣
街亭は地名です。現在の甘粛省にある街。そして、街のそばには険しい山々がそびえていました。そこで馬謖は「ちょうどよい山が街のすぐそばにある。あそこに隠れて待ち伏せしよう」と計画するのです。
諸葛亮の策
副将の王平は、諸葛亮の伝言を思い出し「街を守って周囲に兵を潜ませましょう。山頂に陣を張るのは危険です」とコメント。つまり、あなたの兵の配置は危険だから、やめるべきだと言うのです。しかし、馬謖は聞く耳を持ちません。
王平は仕方なく千の兵を連れて、自分たちだけ山の麓に隠れるのです。その場に諸葛亮がいなかったせいもあるのでしょうか。馬謖は友達の諸葛亮の策を無視してしまうのです。そして、悲劇が起こりました。
敵の張郃とは?
張郃は曹操と旧知の間柄で彼が街亭へと攻め入ります。張郃は魏軍を代表する戦略家。すべての戦いで自分の策が失敗したことはないというほどの切れ者だったのです。まさに街亭の戦いは知恵比べの戦いでもありました。
街亭の戦いついに開戦
先に攻撃を仕掛けたのは馬謖でした。彼は山頂から幾度も兵を仕掛け、張郃の陣営へと迫ります。ところが、張郃は矢の雨を降らせ、馬謖の兵に甚大な被害を与えます。
最初の攻撃で馬謖が山頂に陣取っているのを知った張郃。
補給路を断つのが先決と山頂から水源へとつながる道を封鎖します。
戦いにおいて水源が確保できないとご飯を炊くことができず、兵は空腹状態に……。それはもちろん馬謖も同じ。この策で馬謖の部隊は戦意を喪失し、一気に劣勢へと傾きます。
しばらくすると兵士たちはクレイジーになって陣を飛び出します。馬謖は止めるに止められず、ついには張郃軍に取り囲まれます。麓に潜伏していた王平の助けなければ、蜀軍は壊滅していたでしょう。
空腹はそんなに辛いのか?
現在でもスポーツ選手は試合前に昼飯を抜いたり、軽くしたりします。たらふく食べるすぎると体が動かないからです。
しかし、そういったケースでも朝ご飯や夕飯はしっかりと食べます。
敵を今か今かと待ち構えている兵士は戦っている時間より待機している時間の方が長いのです。軍隊とはそういうものです。唯一の楽しみといえば、勝利の美酒や合間に取る食事ぐらいです。
それが張郃の策略によって絶たれたとあってはやる気もなくなります。兵糧はあるのに水を補給できずに腐らせてしまうのですから、そのときの絶望感は非常に大きいのです。士気が下がるどころか、頭がおかしくなっても当然でしょう。
諸葛亮が犯したミス
もし、馬謖が早く山から下りて攻撃を仕掛けているか、水源が経たれる前に山頂から脱していれば、勝っていたかもしれません。
しかし、敗因はもっと以前にあったのです。それは張郃討伐に馬謖を当てた諸葛亮の「采配」です。
そもそも諸葛亮以外は戦歴のある魏延を推薦していました。しかし、諸葛亮は魏延を面白く思っていませんでした。情が働き気の合う馬謖を派遣してしまったのです。
街亭の戦いは馬謖が判断を誤ったように描かれることが多いですが、最大の敗因は諸葛亮の人選です。
もし、会社の人事部に彼がいたら、劉備社長に左遷させられていたかもしれません。とどのつまり、始まる前から蜀の敗北は目に見えていたのです。
最終的には魏延が派遣されて馬謖を救う形をとります。
これがきっかけとなって魏延は諸葛亮を信頼しなくなります。
なお、諸葛亮は西暦224年に「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」と馬謖からアドバイスを受けています。しかし、それは4年経っても直っていなかったのです。
三国志ライター 上海くじらの独り言
街亭の戦いによって馬謖は処刑されてしまいます。元を正せば諸葛亮の采配ミス。
軍の規律を正すためとはいえ諸葛亮が袖を濡らしたのも無理はないでしょう。もっとも一番の悲劇は斬られた馬謖の方です。上司のミスで命の落とすのですから、悲劇の上塗りです。
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