首席宰相。これが世にいう内閣総理大臣の異名です。一般的には省略して、首相と呼ばれます。ここでは中国での宰相という官職にフォーカスしていきます。
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中国にもあった内閣総理大臣
日本のトップといえば内閣総理大臣ですが、明確にはトップではありません。いわゆる大臣という役職のトップで国家元首は天皇という形をとっています。さて、中国の王朝ですが、近代ですと清朝が有名です。映画『ラストエンペラー』を見た方なら分かるでしょう。
その清朝は日本に倣い「内閣総理大臣」という役職を置いていました。皇帝とは別に内閣総理大臣が存在し、「袁世凱」も清朝の第二代内閣総理大臣に就任していました。宣統帝・溥儀が皇帝に就くと袁世凱は失脚、第三代内閣総理大臣が新たに就任します。宣統帝の周囲に袁世凱を嫌う人物がいたのです。
しかし、辛亥革命が起こると朝廷側から南方鎮圧へ向かうよう指示された袁世凱。このままだまってチャンスを逃すはずがありません。革命派と密通し、大清帝国を裏切ります。そして、中華民国の臨時大総統となるのでした。
楊貴妃とつながりのある宰相・楊国忠とは?
清朝から遡ること千年。中国は唐の時代で日本からの遣唐使も受け入れ、栄華を誇っていました。
そこには美人で名高い楊貴妃の”またいとこ”である楊国忠という偉い人がいました。彼も宰相の一人で、40以上の官職を兼任していました。実質的に彼が唐の政権を握ることとなり、反対する大臣は地方へと飛ばされてしまうのです。
皇帝の玄宗が楊貴妃を溺愛していたことから、皇帝への影響力もありました。
あの曹操が廃止した三公とは?
三国時代の宰相はというと”司徒”、”司空”、”太尉”の三つが最も位の高い官職で、三公と呼ばれました。時代によって三公と呼ばれる役職は変わりますが、後漢のときまでは司徒、司空、太尉でした。
司徒は現代日本でいう学校や銀行を管理。司空は刑務所や河川を管理していました。河川の管理は長江のように氾濫の多い中国では重要な役職でした。
そして、太尉は軍隊を管理する部門です。乱世の時代でしたが、太尉は武将ではなく頭のいい大臣が担当していました。
これは中国の統治機構の習慣で皇帝と文官の大臣、そして武将によって政治を行っていました。皇帝は政治に関するアドバイスを大臣からもらっていたのです。武将は辺境で反乱が起きたときに派遣される程度で、朝廷内での権力はそれほど大きくありませんでした。外弁慶みたいなものです。
戦果を上げれば武将も皇帝や大臣らと会議に出席しますが、無双する武将だけでした。多くの武将は政治にはあまり口出しをしなかったようです。
どちらかというと大臣と手を組んで、共にライバルを蹴落としていた印象が強いです。中には政治的手腕を持つ武将もおり、そういったものは皇帝に取り立てられ、権力を持つようになります。
宰相の勤務地・尚書省
曹丕の魏の時代になると尚書台は”尚書省”と改名します。いわゆる実務機関で日本の霞ヶ関のような場所でした。それまで一つの役職のような存在だった尚書台がちょっとした組織となります。
そして、改名した尚書省は徐々に力を失います。理由はトップシークレットを扱う部署が尚書省から”中書令”に代わったためです。
もともと”尚書”という役職は皇帝への嘆願書を審査する役職でした。優秀な大臣が嘆願書を提出しても尚書に就く偉い人が門前払いしてしまえば、皇帝は死ぬまで見ることはありません。そのため、後漢の時代まで尚書という役職は強大な権力を持っていたのです。
その役目が尚書から中書に移ったのが曹丕の”魏”や司馬炎が建てた”晋”でした。戦いも減り、安定した時代に入ってくると政府機関も統廃合され、役職も変化してくるのです。現代でいうところの省庁再編です。
三国志ライター上海くじらの独り言
武将ばかり目立つ三国時代ですが、役職にも注目してみると意外な人物が宰相の職に就いていたことがわかります。中国の王朝では優れた人物に官職や仰々しい二つ名を与え、やる気を出せます。また、そういった風潮が朝廷全体にありました。
よって名の通った人物ほど多くの官職を兼務し、時には皇帝に匹敵する権力を振るうこともあったのです。
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