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魏延の派閥を考察!蜀では魏延に対してイジメがあった!?

2019年9月2日


 

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蜀の魏延

 

魏延(ぎえん)は蜀(221年~263年)の将軍です。劉備(りゅうび)の益州攻めで活躍した叩き上げの軍人でした。

 

魏延からの提案を却下する孔明

 

劉備からの信任は厚かったのですが、諸葛亮(しょかつりょう)とは軍事面での意見が合いません。建興12年(234年)に諸葛亮が亡くなると、諸葛亮の側近だった楊儀(ようぎ
)
と争いになり殺されました。さて、今回は魏延に派閥があったのか、彼に非はあったのか解説します。

 

自称・皇帝
当記事は、
「魏延 派閥」
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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現代中国では魏延ファンの学者が多い!!

蜀の魏延

 

実は信じられないかもしれませんが、現代中国では魏延擁護の学者は多いのです。魏延は将軍として「有能」・「忠臣」というお墨付きまであります。魏延が反乱に追い込まれて死んだのは全て諸葛亮や側近の蔣琬(しょうえん)の責任であるとされています。

 

蜀の魏延

 

また、魏延が北伐で提唱していた長安攻めの作戦も素晴らしいとプラス評価されており一方、諸葛亮は冒険が出来ない人物であるとマイナス評価をくだされているのです。魏延の人物像に関しても、正史『三国志』著者の陳寿や小説『三国志演義』著者の羅貫中(らかんちゅう)が歪曲したものと考察しています。

 

このように現代中国では評価の高い魏延ですが、実際の彼の性格はどんなものだったのでしょうか?

 

 

 

魏延は協調性ゼロ?

仲の悪い魏延と楊儀

 

蜀に楊戯という人物がいました。名前を聞くと魏延と争った楊儀(ようぎ
)
と思うかもしれませんが、全くの別人です。断片的にしか残っていませんが、彼は『季漢輔臣賛』という書物を執筆しています。幸いなことに裴松之が『三国志』の注に残しています。その中で魏延について「性格は猛々しいが、人との協調性はゼロであり、悲惨な最期を遂げたのも彼の性格から出たものである」と厳しい評価を下しています。

 

魏延はイジメられていた?

魏延、姜維、王平、楊儀

 

ただし、楊戯は諸葛亮から才能を認められていた人物なので、『季漢輔臣賛』の評価も彼の一面的なものと気をつけるべきです。諸葛亮に繋がる人物は魏延に対して、かなり厳しかった形跡があります。

 

董允

 

諸葛亮の死後、楊儀と魏延が互いに反乱を起こしたと劉禅(りゅうぜん)に訴えた時に、董允(とういん)・蔣琬は古株の魏延よりも楊儀をすぐに信じました。これはなぜかと言いますと楊儀は蜀に経済的な基盤を持つ名士に対して、魏延は全く経済的な基盤を持たない武将だからです。

 

実は頭がイイ賢い張飛

 

ここで思い出して欲しいのが張飛(ちょうひ)劉巴(りゅうは
)
の逸話。張飛が蜀の名士である劉巴と「ぜひ一緒に食事をしたい」と誘いますが、劉巴は無視します。諸葛亮が後で劉巴に注意すると、「俺がなんで兵隊野郎と飯を食わないといけないのだ?」と怒った話があります。

 

張飛

 

魏延は名家の出身とは記されていないことから、張飛と同じ「叩き上げの軍人」であることが分かります。劉備についてきた荊州や蜀の名士からすれば、識字能力も無い武将は野蛮で迷惑な存在です。張飛や魏延に対しての対応は、差別的な感情から出たものでした。

 

結論を言うと、魏延自身に派閥は存在しません。彼は諸葛亮系の人物に消された犠牲者と言うべきでしょう。

 

倍返し 魏延!

不満が溜まる魏延

 

ところが、魏延だってやられっぱなしではありません。時には反撃もします。蜀の古参幹部に劉琰という人物がいます。劉琰(りゅうえん)は興平元年(194年)から劉備に仕えており、口が達者で名字が「劉」であったことから、劉備に凄くかわいがられました。

 

しかし仕事が出来るのかというと微妙であり国政には参加もせずに、諸葛亮にくっついて評論家ぶったことばかりしています。真面目に仕事をしているみんなからしてみれば、いい気持ちはしません・・・・・・

 

とうとう建興10年(232年)に中身は不明ですが、魏延に対して不適切な発言をしたので彼の怒りを買います。結果、劉琰は諸葛亮に「私は性格が素行不良で、酒癖が悪くて・・・・・・」と泣きついて言い訳をしますが、後の祭りであり、諸葛亮は2度と表舞台には立たせませんでした。

 

イジメられている人ほど怒らせたら怖いを象徴する逸話です。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

筆者は大学時代、恩師に魏延に関する質問をしたことを覚えています。残念ながら質問の中身は覚えていません・・・・・・

 

魏延と姜維

 

恩師は「魏延ねえ・・・・・・あれも自分から反乱を起こしたわけではないのだよ」と言っていたことを覚えています。

あの頃は分からなかったですけど、こういうことが言いたかったのですかね?

 

※参考文献

・満田剛「諸葛亮没後の「集団指導体制」と蔣琬政権」(『創価大学人文論集』17 2005年)

・渡邉義浩『「三国志」の政治と思想』(講談社選書メチエ 2012年)

 

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