張角は後漢(25年~220年)末期の方士です。方士とは医者・手品師・宗教家の総称です。彼は「太平道」という思想を使って、中平元年(184年)に黄巾の乱という反乱を起こしました。
ところで、張角とはどのような人物なのでしょうか?今回は少ない史料をもとに張角について解説します。
「太平道の張角」
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経歴不明の落第書生?
張角は冀州鉅鹿郡の出身ですが反乱を起こすまでの経歴については、さっぱり分かりません。小説『三国志演義』では科挙(現在の公務員試験)に失敗した落第書生という人物ですが、科挙は隋(581年~618年)が建国されるまで施行されないので虚構です。
しかし、この後漢末期は郷挙里選という推薦制の官吏登用法でした。これは非常に不便なものであり土地に影響力を持った豪族がOKを出さないと役人になれません。
そのため、豪族のために大げさなボランティア活動や多額の賄賂をおくる人も多くいました。張角は有力者の家柄とは史料に残されていないので、中流階級か徐庶と同じく「単家」(=貧しい家柄)の出身ではないでしょうか?
そう考えてみると張角が落第書生という『三国志演義』の設定は虚構ではないかもしれません。
太平道はどこから会得したの?
張角が教えていた太平道は彼のオリジナル思想ではありません。オリジナルは于吉という人が執筆した『太平清領書』に記されています。著者の于吉は正史・小説の両方で孫策に殺害された仙人です。
『太平清領書』は散佚しているので中にどんなことが記されているのか分かりません。また、張角と于吉の関連性も不明です。弟子か孫弟子なのか、それとも于吉の考えた太平道からヒントを得て「張角流太平道」を創始したのでしょうか?史料が少ないので探ることすら不可能です。
なお、小説で張角は南華仙人という不思議な人物から『太平要術』全3巻を送られて、太平道を会得したことになっています。
太平道によるカウンセリング
張角の太平道は民衆の間で爆発的ヒットを生みます。特に病人たちの間で流行したようです。手順は以下の通り。
(1)張角は患者の話を聞きに行く。
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(2)患者に今までやった悪いことを自白させる
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(3)その後、患者に符水(お札を焼いて灰にした水)を処方して飲ませる。
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(4)患者はしばらくすると「先生、治りました」と元気になる。
張角のやっていたことは医学というよりも、現代のカウンセリングに近いことでした。後漢末期は党錮の禁による知識人の迫害・豪族による不正な官吏登用、飢饉などで人々は疲れ果てていたので張角のカウンセリングは人々の心をつかみました。張角の太平道は人気を呼び信者は全国に広がりました。
内部からの告発 黄巾の乱へ
張角は太平道を10年ほど広めていきました。張角がどのような経緯で後漢を打倒するようになったのかは不明です。一方、朝廷も張角のことを知らないわけではなかったのですが全く対処しませんでした。中には「張角は普通ではない」と告発する官吏もいましたが、すぐに潰されました。
なぜでしょうか?
それは宦官に内通者がいたからです。張角は信者の馬元義を洛陽に送り込むと宦官と連携して中平元年(184年)3月5日に挙兵の計画を立てます。都の洛陽を占拠して皇帝を軟禁、さらに地方から張角の本隊が来て合流する。
これが成功すれば後漢は一気につぶれて、新しい王朝が誕生していました。ところが、簡単にいかないものでした。なんと信者の唐周が密告してしまい馬元義は死罪。計画に加担していた宦官の徐奉と封諝も捕縛されました。
唐周の密告理由については現在も分かっていません。予定外の事態が起きたので、張角は仕方なくすぐに挙兵をします。張角は「天公将軍」、弟の張宝は「地公将軍」、張梁は「人公将軍」自称しました。こうして後漢と張角との戦いが始まります。
これを黄巾の乱と言います。
張角の死と黄巾の乱の終焉
そこで後漢も何進を大将軍に任命して、党錮の禁で追放されていた盧植などを呼び戻します。黄巾軍が勢いづいていたのは最初だけであり、皇甫嵩の火攻めの計で敗北して以降は衰退していきました。
張角の本隊は盧植と董卓が相手をしますが、戦果が挙げられなかったので2人は作戦途中で免職となり皇甫嵩が指揮をとります。苦戦の末に皇甫嵩は張角の弟の張梁を斬り捨てました。
さらに皇甫嵩は張角軍本隊も打ち破ります。だが張角はこの時、病気で亡くなっていました。皇甫嵩は張角の棺桶を壊すと、遺体の首を斬って証拠として持ち帰ります。その勢いで残った弟の張宝を討ちました。こうして後漢を騒がせた黄巾の乱は終わりを迎えます。
三国志ライター 晃の独り言 晃の想像
張角がどうして後漢打倒を考えたのか史料は何も語っていません。弟や弟子から担ぎ出されたのでしょうか?
もしかしたら、こんな感じかもしれません。
「先生、役人に一泡ふかせましょう!」と弟子が言ったので、張角が「分かった。君たちの命は私に預けてくれ!」頷いたのかもしれません。
案外、西郷隆盛と一緒だったのかもしれません。あれも美談が多く混ざっていますけど・・・・・・
※参考文献
・谷川道雄・森正夫編『中国民衆叛乱史1 秦~唐』(東洋文庫 1978年)
・松崎つね子「黄巾の乱の政治的側面:主として宦官との政治的側面から見て」(『東洋史研究』32-4 1974年)
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