十常侍とは後漢(25年~220年)の第12代皇帝霊帝の時代に政治的権力を振るった宦官の集団です。宦官は男性器を切り落として後宮に仕える役職でした。ただし、十常侍は役職名ではありません。また彼ら自身も十常侍と名乗っていません。
敵対者である人物たちが主だった宦官に対して使っていた呼称です。
さて、十常侍はどのような人物がいるのでしょうか?今回は十常侍について解説します。
「十常侍」
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十常侍は10人、いや12人いるぞ!
十常侍はどんな人がいるのでしょうか?『後漢書』によると以下の人物です。
張譲・趙忠・夏惲・郭勝・孫璋・畢嵐・栗嵩・段珪・高望・張恭・韓悝・宋典
以上12人・・・・・・いや、おかしい。十常侍なのに12人は変である。これでは「十二常侍」だ!
最初は筆者の数え間違いかと思いましたけど合っていました。どうやら、十常侍の「十」は「約10人」という意味のようであり、ぴったりじゃなくても大丈夫のようです。
十常侍はどんな人たちなの?
それでは12人はどんな人たちか解説していきましょう。
(1)張譲・趙忠
この2人は十常侍の筆頭です。『三国志』・『後漢書』、小説『三国志演義』にも登場するほど有名な人物。先輩宦官が相次いで死刑・病死すると、2人は一緒に権力を握ります。
ちなみに霊帝は張譲を「私の父」、趙忠を「私の母」と呼ぶほど尊敬していたようです。霊帝の死後、大将軍の何進と対立しました。同じく何進と対立する宦官の蹇碩と一緒に何進の排除を企てます。しかし、蹇碩の立場が危うくなると何進に寝返って蹇碩を見殺しにしました。
だが、何進が董卓などを呼び寄せて十常侍を始末しようと計画したので、先手を打って何進を返り討ちにしました。ところが、逆上した袁紹・袁術・呉匡により宮中に突撃されます。この乱戦の最中に趙忠は殺害されました。
慌てた張譲は同僚の段珪・第13代皇帝少帝、陳留王(後の第14代皇帝献帝)と逃走しますが、逃げれないと悟り段珪と一緒に入水自殺を遂げました。
(2)段珪
張譲・趙忠の次に有名なのは段珪です。彼が有名な理由は、何進を直接、殺しているからでした。最期は袁紹たちに攻め込まれ、逃げる途中で諦めて張譲と一緒に入水自殺をします。
(3)夏惲
十常侍の中で最初に亡くなっている人です。何進が殺される前にはこの世を去っていました。おそらく病死していたのでしょう。中平6年(189年)に霊帝が亡くなると何進は霊帝の母の一族である董氏と政権争いを行います。その時に何進は董太后(霊帝の母)を弾劾文を提出しました。
「董太后は亡くなった宦官の夏惲を使って私腹を肥やして」と書いていたそうです。このことから夏惲は中平6年(189年)時点で亡くなっていると分かります。
(5)高望
高望は少帝が皇太子の時からの寵臣です。そのおかげで息子の高進も出世させることに成功します。最期は袁紹たちの攻撃で巻き込まれて殺されました。
(4)郭勝・孫璋・畢嵐・栗嵩・張恭・韓悝・宋典
郭勝は何進と同郷であり、彼の異腹妹を後宮に入れて霊帝の皇后にした宦官で有名です。
孫章・栗嵩・張恭・韓悝は記録が乏しくどのような仕事をしていたのかも分かりません。畢嵐・宋典は霊帝のもとで宮殿造営の仕事をしていました。この2名は大工の宦官だと分かります。
上記の人たちは正史『三国志』や『後漢書』には、最期が記されていません。董卓が政権を握ってからも登場しないので袁紹の攻撃に巻き込まれて死んだと推測されています。
三国志ライター 晃の独り言
以上が十常侍に関しての解説でした。十常侍が12人というのは今回の調査で初めて知りました。確かに「十二常侍」だとゴロが悪いですからね・・・・・・
ところで、十常侍が何進も袁紹、董卓も破ったらどうなっていたのでしょうか?
後漢はもしかしたら、唐(618年~907年)末期のように宦官が天下を握って、宦官は国家の元老という意味から「定策国老」、皇帝は弟子の皇帝という意味の「門生天子」と呼ばれて、そんな時代が何十年も続いたかもしれません。そうしてみると、曹操・劉備・孫権の三国時代も夢のまた夢だったでしょう・・・・・・
※参考文献
・狩野直禎『三国時代の戦乱』(新人物往来社 1991年)
・林田慎之介『人間三国志 民衆の反乱』(集英社 1990年)
※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。隠していたけど実は十常侍のファンだった。自分は宦官について考えていることがある、と思う人はドシドシコメントを送ってください。
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