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甘寧の経歴は「地元の無頼者のリーダー」!それを喜んで迎え入れた「呉」のあたたかさが見えてくる

2019年10月12日


 

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三国志に出てくる海賊達と甘寧

 

甘寧(かんねい)って、三国時代の武将たちのなかでも、なんだか異色じゃないですか?

特に最近のゲームや漫画では、奇抜なファッションや奇矯な言動の人物として描かれることが多いように思います。

 

甘寧に殺されかける料理人

 

こういう描かれ方をしているのは、あくまでも「伝えられているイメージの悪さ」の問題かと思っていたのですが。

実は、歴史書である『正史三国志』の「甘寧伝」を確認してみると、史実の甘寧像もなかなか「異色」「異端」「奇矯」と言わざるを得ません。

 

甘寧と呂蒙と凌統

 

いっぽうで『正史』における甘寧の経歴を読んでいると、「ひょっとしたらこの時代の呉という国には、このような地元出身のヤクザ者風情の人物を抱き込めるほどの柔軟さがあったのではないか、それが呉が急拡大できた秘訣でもあったのではないか?」とも推測できます。

 

そこで今回は、「甘寧がわかると呉の雰囲気もわかる!」をキーワードに、奇矯なリーダーとしての甘寧の姿を追いつつ、彼を許容できてしまった「呉」という人間組織のあったかさを感じてみたいと思います。

 

自称・皇帝
当記事は、
「甘寧 リーダー」
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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これではまるで地元の無頼な「族」?孫権に会う前はかなりヤンチャだった甘寧の経歴

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それではさっそく『正史三国志』から、史実の甘寧の姿を確認してみましょう!

 

・甘寧は「おとこだて」を気質として好み、地元の若者から無頼者どもを集めその棟梁となっていた

・腰に鈴をつけるファッションを好むことで知られていた

・その格好で乱暴な若者たちをぞろぞろと連れまわしていた

・地元の人は、鈴の音が聞こえると「やばい、甘寧の一味だ!」とあわてて道をあけた

・地元の名士や役人たちとの交流を好み、必要とあらば犯罪者の捜索やその始末を手伝った

・ただし地元の名士のもてなし方が無粋だと、部下をけしかけて屋敷を襲い財産を奪った

 

甘寧 裏切る ゆるキャラ

 

先ほど「最近のメディアでは奇矯なキャラとして描かれることが多い」と言いましたが、正史に描かれている姿のほうがよほどイメージ悪いですね。のみならず、自分たちの出現がわかるように、わざわざハデな格好をして、トレードマークとしての鈴をつけて地元を練り歩いているなんて、いかにもヤクザ風情というか、言っちゃ悪いですが「いきがってる族」と言われても仕方のないやんちゃぶりじゃないでしょうか。

 

時代と土地を考えるとこういう男こそが必要とされたリーダーだった?

甘寧 ゆるキャラ 三国志

 

ですがよくよく考えなおしてみましょう。

 

甘寧の生きた三国時代は文字通りの乱世。

地方の名士とか高官とかいった人々も、暴力に頼らないと何もできないシチュエーションだったでしょう。

 

甘寧と凌統

 

そういう時に甘寧のように、「何をするかわからないヤンチャもの」でありつつ、「もてなしをしっかりすれば、義に厚く、治安の維持や犯罪者の摘発もやってくれる」人物がいたら、どうでしょうか?

 

みんな、怖がりつつもその力を頼りにするようになったのではないでしょうか?

 

馬に乗って単身荊州へ赴く劉表

 

ましてや若き日の甘寧が暴れていたのは荊州の近隣、劉表(りゅうひょう)が統括していた地方です。

 

後に劉備(りゅうび)が身を寄せることになる荊州ですが、劉表の一族といえば後継者争いでガタガタ。三国時代の初期の段階から、すでに秩序は混乱していたと推測されます。その土地で甘寧のような若者のリーダーがいたら、それはそれで重宝されていたのではないでしょうか?

 

疫病が蔓延した村と民人

 

何しろ、民衆が餓死したり、戦争に巻き込まれて家を失ったりが平気で起こっていたこの時代、無頼な若者たちのほうからも「甘寧についていけば食いっぱぐれはない」と信頼されていたのではないでしょうか?

 

ある意味、甘寧という地元リーダーを軸にして、無頼な若者と地方高官たちが、うまく回っていたという見方もできるかもしれません。

 

この男を許容した孫権軍の包容力がなんともあったかい!

甘寧と凌統と呂蒙

 

さて、この甘寧。

あるとき「こんな生活をしていてもしゃあないな」と思い直し、ちゃんと学問を習って仕官の道を探ります。

 

後継者を決めるのに困っている劉表

 

それで訪ねた先が、荊州の領主、劉表。ところが(案の定といいますか)劉表とは、なんだかうまくいかなかったようです。

 

黄祖

 

その後、黄祖(こうそ)のところに身を寄せますが(これも案の定といいますか)なんだかしっくりこなかったそうです。

 

周瑜

 

それで呉に流れていくと、周瑜(しゅうゆ)呂蒙(りょもう)が「これはいい人材がきてくれた」と大絶賛で孫権(そんけん)に推薦してくれたそうです。孫権も甘寧のことをたちまち気に入り、「君は黄祖のところから来たんだっけ?よし、そんなら黄祖を攻める時は君にぜんぶ任せるよ!」と凄い決断をして、酒宴を催して甘寧とおおいに飲んだそうです。

 

孫権に攻められ戦死する黄祖

 

甘寧も孫権軍が気に入ってしまい、その期待通りに黄祖軍をこてんぱんにして孫権のもてなしに応えました。その後の甘寧の活躍は数々伝えられている通りです。

 

まとめ:劉表のところにいた甘寧というのがどういう暮らしをしていたのかもちょっと見てみたい

呉を立て直す孫休

 

こうしてみると、「呉」というのは、こんなやんちゃなお兄ちゃんを抱える柔軟性があったようですね。のみならず、どこか完璧に波長が合っているようにも見えます。

 

呉の勢力を率いる孫策

 

思えば孫権の呉というのは、孫策(そんさく)の時代に周辺の豪族や武装集団をどんどん飲み込んで急成長していったところ。甘寧はあくまで代表例であって、他にもこのような「地元のやんちゃなリーダー」風情の武将が、ほかにもいっぱいいたのかもしれませんね。

 

奇矯な甘寧も、呉の中では「そんなに珍しくない」経歴だったのかもしれません。

 

三国志ライター YASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

そうだとすると、少し気になるのは、甘寧の経歴に「一時期、劉表のところにいた」とある点。どう考えても相性が合わないとは思いますが、劉表のところにいた甘寧というのは、どういう顔をして、どんな暮らしをしていたのでしょうか。

 

スタイルを変えず、やんちゃに暴れていたのでしょうか?

それとも多少はおとなしくしようと努力していたのでしょうか?

 

ちょっと見てみたい気もします!

 

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呉の武将

 

 

 

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