36万人の太平道教徒の大反乱、黄巾賊の乱を何とか平定した漢王朝。
これで、当面の危機は回避できたかに見えました。
しかし、乱が鎮圧されるや否や、それまで黄巾賊の乱を前に
呉越同舟をしていた外戚と宦官の対立が再び激しくなります。
ここで、外戚と宦官について、少々詳しく説明しましょう。
前回記事:11話:パンドラの箱を開けた漢王朝
この記事の目次
外戚(がいせき)って何?
外戚とは、皇帝の妃に連なる一族で、男子を産む事により、
王朝にも血縁的にも繋がる事により大きな影響力を持つに至った勢力の事です。
後漢の前の前漢王朝でも、外戚の王一族が無能な皇帝を差し置いて
権力を奮い、外戚出身の王莽という男が皇帝を廃して、
自らが即位して新という王朝を立てて前漢王朝を滅ぼしています。
後漢においても、これと同じ事が起きていたのです。
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それじゃ宦官(かんがん)を簡単に教えて!
一方の宦官(かんがん)とは、男性のシンボルを切除した男性の使用人です。
実際の地位は、皇帝の奴隷であり低いのですが、
皇帝に近く高位に上り、富と権力を握るものも少なくありませんでした。
どうして去勢した男子が皇帝に必要だったのかと言うと
それは、皇帝のハーレムに大きな関係があります。
後宮内がハーレムだった理由
中国皇帝は、何千人という美女を後宮に抱え、一人でも多く
自分の血を継いだ王子を残そうとしました。
当時は、医学の水準も低かったので沢山の子孫を得る事は、
王朝を維持するのに絶対必要な事でした。
しかし、そのような美女の管理を健康な男にさせたのでは、
いつ間違いが起きるか分かったものではありません。
宦官制度を作った理由
そこで、美女の管理と、血の正統性を守る為に宦官が造り出されたのです。
宦官は、中国ばかりでなく、中近東や、朝鮮にも存在します。
いずれも、王や皇帝が大きなハーレムを抱えている国家が多いのです。
宦官が金銭や権力に執着する理由は?
このような宦官は、子孫を残すという本能を奪われていたので、
金銭や権力に異常に執着する傾向がありました。
「どうせ、自分一代の命、面白おかしく過ごさないと損だ」
宦官は、こうして政敵を倒し、可能な限りの贅沢をし、皇帝を操り
絶大な権力を奮ったのです。
後漢の皇帝、霊帝のお気に入りの宦官
後漢の皇帝、霊帝にも、蹇碵(けんせき)というお気に入りの宦官がいて
事実上彼の言いなりでした。
無能な霊帝、趣味はお金儲けと女遊び
霊帝は、政治には関心がなく、売官によるお金儲けと、女遊びのみに
興味があるという典型的な馬鹿皇帝です。
勢い、権力はお気に入りの宦官、蹇碵(けんせき)に手中し、外戚である霊帝の妃、
何皇后の兄である何進は、何とか宦官の勢いを削ごうと躍起になります。
それに蹇碵(けんせき)も対抗し、抗争は激化する一方でした。
霊帝は、西園八校尉という1万人の近衛兵団を組織するに辺り、
黄巾賊討伐で手柄を立てた何進を総司令官にせず、蹇碵(けんせき)を指名します。
もっとも、何進は、元は肉屋であり戦略など知らず、全ては
漢の将軍達におんぶに抱っこだったのですが、、
それでも後宮に隠れて戦の矢面に立たなかった宦官、蹇碵(けんせき)が総司令官に
任命された事にひどく腹を立てていたのです。
「おのれ、蹇碵(けんせき)、宦官風情がこの儂を差し置いて、今に見ておれ」
何進はこうして蹇(けんせき)碵を除く事に執念を燃やすようになります。
西暦189年、好き放題をした遊び人皇帝霊帝は病没、、
後には、劉協と劉弁という二人の皇位後継者が残されます。
皇帝の地位は、幾度かの政争を経て何皇后の産んだ劉弁が継ぎ、
少帝として即位しますが、宦官蹇碵と外戚何進の対立はさらに加速していくのです。
次回記事:13話:霊帝の後継者争い、劉協と劉弁、二人の皇子を巡り蹇碵と何進は争う